描く側の特権と描かれる側の人権~「被写体ファースト」の視点から『Black Box Diaries』の議論を考える~
- Kazuki AGATSUMA

- 2月5日
- 読了時間: 42分
更新日:2 日前
※本稿は、ドキュメンタリーの一作り手の立場から、映画『Black Box Diaries』の制作・公開プロセスに関する議論を自分なりに整理することを目的としています。監督である伊藤詩織さんの経験や性暴力サバイバーとしての立場、そして映画の内容そのものを否定・評価する意図はありません。(なお、本文中でも理由を説明していますが、映画は未見の状態で書いています。)
※また、本稿で使用している「被写体ファースト」という言葉は、厳密な理論用語というよりも、ドキュメンタリー制作における作り手の姿勢を簡潔に示すための便宜的表現です。被写体の意向に常に従うことや、被写体を弱く守られるばかりの存在として扱うことを意味するものではなく、作り手の責任(最終的な判断の軸をどこに置くか)や権力の非対称性を問い直す意図で使用しています。
<目次>
第1部 『Black Box Diaries』をめぐる分断
(1)はじめに
(2)ドキュメンタリー業界の反応とその後の反動
(3)作り手たちの批判の文脈と誤解・齟齬が生まれた背景
(4)本稿の論点整理―「被写体ファースト」の立場から―
第2部 描く側の特権と描かれる側の人権
(1)議論の前提となる自身のドキュメンタリー観と制作倫理
(2)描く側の特権と映像の加害性
(3)映像と人格の密接な関係と被写体の許諾のライン
(4)自作の事例と作り手の責任
(5)法的尺度と道義的尺度の狭間で
(6)作り手が被写体と向き合う中で育んだ倫理観と人権侵害防止の議論
第3部 『Black Box Diaries』をめぐる議論をどう捉えるか
(1)『Black Box Diaries』の制作・公開プロセスへの批判の経緯
(2)「被写体ファースト」の目に映る現在の状況
(3)作り手たちへの批判の推移と今自分が文章を書く理由
(4)分断に対する自身の解釈と「擁護派」「批判派」に共通する“願い”
(5)おわりに
参考資料 『Black Box Diaries』に関する自身のXの投稿まとめ

第1部 『Black Box Diaries』をめぐる分断
(1)はじめに
2025年12月12日に日本で劇場公開された伊藤詩織監督『Black Box Diaries』をめぐって、X上ではいわゆる「擁護派」「批判派」と区別される人びとの間で激しい分断が生じることになった。
発端は、長年伊藤さんの性被害の民事裁判の代理人弁護士を務めてきた西廣陽子弁護士ら元弁護団が、映画の制作・公開プロセスにおける倫理的・人権的問題を公に問題提起したことによる(参考①:2024年10月の1回目記者会見/参考②:2025年2月の2回目記者会見)。
被写体でもある西廣さんは、伊藤さんが入手した事件当時のホテルの防犯カメラの映像を映画に使用しないという約束で(これは西廣さんが伊藤さんと一緒にサインしたホテルの誓約書の内容が関係している)、映画への出演を承諾し、さらに完成前に自身や弁護団の映像を確認させてほしいということを伊藤さんに伝えていた。そして伊藤さんもこれを了承していた。
しかし、映画が完成しても伊藤さん側からその確認がないまま、西廣さんは映画がサンダンス映画祭に入選したことを伊藤さんとは別のルートで知ることになる。そして作品の中でホテルの許諾がないままに防犯カメラの映像が使用されていたこと、さらには自身の映像や無断録音された音声が自身の意図とは異なる形で使用されていたことを知り、大きなショックを受けることになる。
西廣さん及び弁護団は、それ以外にもいくつかの重要な問題を指摘している。その一つ一つはここでは詳しくは取り上げないが(第3部で一部自身の見解を述べているが)、僕はドキュメンタリーの作り手として、監督が被写体にこのような形で声を上げさせてしまったことそれ自体が残念でならないと感じている。
米国アカデミー賞にまでノミネートされ、すでに海外で公開されていた作品に対し、長年伊藤さんを支援してきた西廣さんが何故公に声を上げなければならなかったのか。そして伊藤さんは何故作品を最初に発表する前に西廣さんの声に耳を傾けることができなかったのか。両者の主張は今も食い違ったままで、そのことがさらに周囲の分断を深めている。
(2)ドキュメンタリー業界の反応とその後の反動
一方、その余波はドキュメンタリー業界にも及んでいる。
『Black Box Diaries』については、2024年10月にその問題が公になって以降、これまで少なくない業界関係者が倫理的・人権的な観点からその制作・公開のプロセスを批判してきた。僕自身もその一人である。
とはいえ、僕の場合は「批判せざるを得なかった」という言い方のほうが正しいのかもしれない。何故なら、性暴力のサバイバーが直面している現実を鑑みれば、伊藤さんが自身の表現を自分がもっとも望む形で世に問おうとした気持ちは理解できるし、順番を間違えてしまったとはいえ、伊藤さんのサバイバーとしての側面は、それはそれで変わらず大事にしたいという思いがあったからである。
その上で、伊藤さんの監督としての側面を切り分け、作品が関わる人の権利や尊厳を脅かすことなく、みんなにとって良い形になるようにとの願いを込めて、僕も微力ながら慎重に発言してきたつもりである。(『Black Box Diaries』に関する自身のXの投稿については記事の最後に参考資料として掲載している。)
そしてその願いは他の作り手たちも同じだったのではないだろうか。何より、西廣さん及び弁護団も、望んでいたのはあくまで作品の改善であって、作品の封印を望んでいたわけではないのだから。
ところが、多くの人の期待に反して、肝心の西廣さんとの対話がなされないまま、『Black Box Diaries』の日本公開が始まってしまった。
そして次第に支持が広がるにつれて、どのような内容であれ、映画への批判そのものが伊藤さんへの二次加害(人格否定やデマの拡散)に加担することになるため厳に慎むべしといった空気がX上で醸成されることになった。
そこから、今度は伊藤さんを批判してきた作り手たちが、逆に伊藤さんを擁護する人たちから一斉に批判を受けることになる。一転してドキュメンタリーの作り手が強い風当たりを受けることになったのである。
このようなことは、僕が知る限り初めてのことである。
もちろん、伊藤さんを擁護する人たちの気持ちを考えたら、このような反動とも言える現象が起こることも理解はできる。そこに敵対の気持ちなど微塵もない。
むしろ、批判の中には一部同意できるものさえある。
例えば、「伊藤さんを批判している作り手は画面に映る被写体全員に許諾を得ているのか」といった指摘に関しては、仮に上げ足取りだったとしても、現状、(僕が把握している限りにおいては)作り手側からちゃんとした説明がなされていないのは事実だと思うし、「伊藤さんばかりを責めるのはダブルスタンダードであり女性差別ではないのか」といった指摘に関しては、僕も少し前に別の男性監督(第3部で挙げている是枝裕和監督の問題)を批判した際に同じことを指摘していたからだ。
このように、いくつかの指摘が、図らずも作り手たちが向き合わなければならない課題を浮き彫りにした面があるのは間違いないと僕自身は思っている。(ただし後者の指摘に関しては、そもそも被写体が公に声を上げるという事例自体が少ないので、今回は公開前にそれが起きたことで改善への期待が高まったことも強く影響しているとは思うのだが。)
一方で、作り手たちに向けられた数々の言説を見ると、そこには誤解も多分に含まれているということを言わざるを得ない。
(3)作り手たちの批判の文脈と誤解・齟齬が生まれた背景
そしてこのような誤解や齟齬が生まれてしまう大きな要因として、僕はそもそも発言者がどのようなドキュメンタリー観に依拠しているのか、またこの件における伊藤さんと西廣さんの関係をどのように捉えているのかといった認識論的な違いがあると思っている。
例えば『Black Box Diaries』に関しては、伊藤さんを擁護する人たちの間で、「海外の映画祭でも高く評価され、法的に問題ないのだから何も問題ないはず」という言われ方をされることがしばしばある。これはあながち間違いではないのだろう。
しかし作り手の多くは、現場で被写体と向き合う中で、法的尺度よりも道義的尺度を重視し、被写体の意思を尊重しつつ、その上で自身の主張を組み込むために対話や調整を重ねながら(ときに摩擦や衝突も重ねながら)表現をしている場合が多い。
これは、ドキュメンタリーという表現が原理的に被写体に負担をかけたり傷付けたりしてしまうリスクがあることを身をもって知っているからこそ、作り手はいかに被写体の権利や尊厳を守りつつ、自身が目指す表現を成立させるかに注力しているとも言える。
言い換えれば、それは作り手の表現と被写体の権利や尊厳が両立しにくい場合には、被写体を守ることを優先する「被写体ファースト」(言葉の定義については次項で改めて確認する)のドキュメンタリー観に依拠しているということだ。
加えて、近年では映画制作の過程における性加害やハラスメントなどの問題が明るみになってきたことから、ドキュメンタリー業界内でも従来の被写体との関係構築のあり方を捉え直し、人権侵害防止の議論を行う機会が増えている。
同時に、表現だから、芸術だから、特別に何でも許されるわけではないという芸術至上主義的な価値観の見直しも図られるようになってきている。これらは、今回の伊藤さんと西廣さんの関係(加害と被害を生み出す構造)を考える上でも重要な視点になってくると言えよう。
このように、作り手からの『Black Box Diaries』の制作・公開プロセスへの批判は、ドキュメンタリーが長年現場で被写体と向き合う中で積み重ねてきた倫理的議論とその実践という文脈の中で発せられた面が非常に大きいのである。少なくとも、僕自身はそう捉えている。
一方で、こうした文脈や作り手ならではの現場感覚が、外部の人には分かりづらいところもあるのだろう。
実際に、僕が先日伊藤さんを擁護する人たちがXのスペースで開催した映画のお話し会を実名で聴いてみたところ(自分が何か発言したわけではない)、性暴力関連の話については共感できることが多かった一方で、被写体の権利に関する部分については物事の捉え方が大分違うのだなと感じる場面がいくつかあった。
そこに対して、僕を含め、伊藤さんを批判する作り手の言葉に不十分な点や矛盾する点があったことは否めないので、それが誤解や齟齬を生み出す一つの要因になったこともまた事実なのだろう。そのことは僕も真摯に受け止めなければならないと思っている。
(4)本稿の論点整理―「被写体ファースト」の立場から―
前置きが長くなってしまったが、本稿では以上のような背景や反省点を踏まえた上で、僕は改めて「被写体ファースト=法的尺度よりも道義的尺度を重視し、かつ自分の軸(主張)を持ちながらも被写体の軸(人権)を守ることを優先する、対話と修正可能性を手放さない制作姿勢」のドキュメンタリー観に立ち、今一度、自分がどのような文脈から伊藤詩織監督『Black Box Diaries』の制作・公開のプロセスを批判したのかを明らかにしたい。
そのために、第2部では、本作をめぐる具体的な是非から一度離れて、まずドキュメンタリーの構造的な問題(描く側の特権や映像の加害性)について改めて確認し、作り手が発表前に被写体に映像を確認する必要があるのは何故なのか、そこで映像使用の許諾を得るべき被写体がどのように細分化されるのか、そしてドキュメンタリーにおいて法的尺度よりも道義的尺度が重視される傾向があるのは何故なのか、自作の経験や近年の人権侵害防止の議論を交えながら多くの人の疑問に自分なりに答えることを試みたい。これを具体的に示すことは、『Black Box Diaries』の制作・公開プロセスの問題を議論する上で大事な前提と考えるからである。
その上で、第3部で僕が西廣弁護士の訴えを尊重する理由を示しつつ、『Black Box Diaries』をめぐる議論をどのように捉えているのかを示したい。
そしてこれを書くのは、伊藤さん個人を責めるためではもちろんなく、「擁護派」「批判派」のどちらが正しいかを競うためでも分断を煽るためでもない。両者の間にある溝を埋め、議論が感情的な対立に陥らないようにするためには、まず自分の論理をちゃんと知ってもらう必要があると考えるためである。
当然、業界を代弁するものではないし、「オキモチ」と揶揄されたとしてもかまわない。あくまで自身の整理のためにここに書き残しておく。
第2部 描く側の特権と描かれる側の人権
(1)議論の前提となる自身のドキュメンタリー観と制作倫理
ここからは、『Black Box Diaries』をめぐる具体的な是非から一度離れて、議論の前提となる自身のドキュメンタリー観や制作倫理をなるべく映像の原理的な話にまで遡って整理していきたい。
第2部全体を通して理論的な話や事例的な話が続くが、これは『Black Box Diaries』の議論の中でも大きなトピックとなった被写体の許諾の件に関して、自分なりの回答を示す狙いもある。ここでの視点を踏まえた上で、第3部の考察に入っていければと思う。
なお、最初に僕自身のことを少し書くと、僕はドキュメンタリーの個人制作者で、これまでに長編3作(いずれも自主制作でうち2作は劇場公開)をはじめとしたいくつかの作品を発表している。
そして自身の経験から学んだことを基に、これまでにドキュメンタリーの倫理に関する自省・自戒を込めた文章をXやブログで度々発信してきた。(本文内でも要所要所で関連するもののリンクを貼っている。)
以下は3年近く前に書いた2,000字弱の文章だが、自分が何を大切にしているのか、どのような文脈からこれまでドキュメンタリー業界内で起きた問題を批判してきたのかを知っていただくためには簡潔で分かりやすいのかもしれない。第2部のエッセンスが詰まった内容とも言えるので、よければ事前に読んでいただくことをお勧めする。
■ある原稿~人を記録し、表現するということ③~
それでは本題に入っていきたい。
(2)描く側の特権と映像の加害性
まず、前提として共有しておきたいのが、作品の創作者となるドキュメンタリーの作り手は、被写体に対して「描く側の特権」を有しているということである。そしてその特権は、作り手がいかに若く経験が浅かろうと、作り手が作り手であるというだけで自動的に付与されるものでもある。
ここで急に「特権」という言葉を持ち出しても、多くの人はあまりピンと来ないのかもしれない。しかし今の時代、自分の望まぬ映像が勝手に晒されたり、言葉の一部を切り取られ、別な意味に歪められたりするリスクが誰にでもあることを考えれば、その扱いがいかに撮る側(編集し発信する側)に委ねられているかも容易に想像できるのではないだろうか。
そのリスクは、ドキュメンタリーの作り手がいかに誠心誠意被写体と向き合っていたとしても、基本的にゼロにはならない。
そのため、作り手は自分が持つ特権を自覚的にコントロールすることで、被写体に対する加害性を抑制することが求められるのである。そしてそれは、主に被写体の意思の尊重という形で行われる。(至極当然の話だが。)
ただし、作り手がその特権を相手の意思にかかわらず行使できる場合もある。僕自身、『Black Box Diaries』について初めて言及した1年前のポストでも書いているが、国家権力や加害者の暴力性・犯罪性を告発する場合などである。この場合、映像の力は特権というよりも、逆に権力や不正義に抗う大きな力となる。(もちろん事実に真摯に向き合い、相手を不当に貶めない範囲での話だが。)
しかし多くの場合、ドキュメンタリーが被写体とするのは一般の人であり、作り手と人間的な関係を結んだ生身の人である。そしてその人なくして映画はできないのだから、被写体は作品に協力してくれる一番のボランティアとも言える。
そのため、仮に相手が何らかの権力や加害者的側面を持つ人物だとしても、相手を欺くことにならないよう、敬意を持って配慮し包摂しなければならない。(それは決して、被写体を弱く守られるばかりの存在として扱えという意味でも、自分の主張や批判的視点をなくして被写体に迎合しろという意味でもない。)
ここで大事なのは、いくらドキュメンタリーが事実の断片を作り手の意図に沿って再構成した創作物とはいっても、そこに映るのはまごうことなきその人自身なわけだから、作り手が被写体の事情やその繊細で複雑な思いのすべてを一方的に決められるわけではないということである。
描く側と描かれる側の間には、必ずと言ってよいほどイメージのズレが生じる。ましてや被写体には被写体なりの生きる文脈があるのだから、好意的に描けば問題ないという単純な話でもない。(このドキュメンタリーの原罪のようなものについては、自身のブログ「人を記録し、表現するということ①」で具体的に書いている。)
そしてもし被写体の思いを置き去りにして、単なる素材として利用したならば、それは不本意なイメージを相手に押し付け、言葉を奪い、大義の元に苦しめるゆゆしき事態にもなってしまう。何故なら映像はその人の人格や実生活と密接に関わるからだ。
だからこそ、作り手は自分の表現が被写体の権利や尊厳を脅かすことにならないよう、被写体が劇中で担ってくれる役割(描かれ方)に応じて、発表前に確認するなど対話に努める必要があるのである。
(3)映像と人格の密接な関係と被写体の許諾のライン
その対話の形は、被写体によってさまざまである。ドキュメンタリーでは、一口に「被写体」と言っても主人公から偶然画面に映り込んだ人までバリエーションがあるため、映像がその人の人格や実生活とどれほど密接に関わるかの度合いも人によって違うからだ。
さらにその度合いは、被写体の性格や社会的立場や抱えている事情などによっても変動があり、そこに撮影時の状況や環境なども影響するため、必ずしも一定のグラデーションではない。
また制作が長期化した場合には、当然作品に対する被写体の距離感や気持ちも変化するため、撮影時の同意がそのまま継続されるとも限らない。(そもそも撮影段階では先のことは漠然としていることのほうが多い。)これらの理由から、「発表前に映像に映る被写体の許諾をどこまで得るべきか」の最低ラインも、「一概には決められない」という結論になる。
とはいえ、現在進行形の出来事に瞬発的に対応し、不特定多数の人と関わるドキュメンタリーにおいて、映像に映るすべての人に許諾を得るのはあまり現実的ではない。それで言うと、例えば街中を歩く人びとなどは、常識の範囲内で風景として使用することはそこまで問題ないのではと僕自身は思っている。(あるいはデモやパレードなど、周囲にまなざされることが前提であり、かつ「個」が「全体」に還元されるようなものもこれに当てはまるのかもしれない。)
また何かのイベントや会合の参加者なども、遡って全員に許諾を得るのも現実的ではないので、そのとき映画撮影のアナウンスをしてその後抗議の声がなかったのであれば、発表前に主催者に一言連絡を入れて筋を通せばそれで問題ないことも普通にあると思う。撮り方など工夫次第でトラブルを回避できることもあるし、肖像権とのバランスを考えて、僕自身はそこまで表現の自由を委縮させる必要はないのではという立場である。(もちろん、抗議の声があればそれには対応しなければならないが。)
そのため、ドキュメンタリーの作り手が同意や許諾の議論をする場合、前提にしているのは基本的に群衆ではなく、作中でその人の人格や実生活に一定程度以上関わる役割を担ってくれた被写体だと僕は思っている。
少なくとも、僕の場合はこれがある程度の基準になるのだが、それで言うと、カメラに対して一言でも話をしてくれた人とか、それ以上の役割を担ってくれた人には、原則として発表前に必ず確認をすることにしている。(場合によっては、インタビューはなくとも目立つ動きをした人などもこれに含まれる。)
そしてこの確認は、被写体によって口頭で済むこともあれば作品を観てもらうこともあるが、その際、映画の趣旨や編集の意図はもちろんのこと、公開方法など必要な情報をしっかりと開示し、その上で了解を得ることにしている。
そこでもし修正や削除の要望があれば、まず相手の気持ち(それが単なる感情的なものであっても)を受け止めた上で、対話を試み、単なる妥協ではない、お互いに良い形を探っていく。(この際、お互いに信頼できる第3者の客観的な視点が加わると議論が円滑に進むこともある。)
その上で、被写体にとってどうしても難しい映像があれば、その映像の使用は諦めるしかない。ドキュメンタリーにおいていくらリアリティのある映像(魅力的・衝撃的な映像)が重要とは言っても、被写体の誰もが常に何でもさらけ出せる状態でカメラの前に立っているわけではないので、そこでは相手が映画のために見せる顔を選ぶ自由も必要になってくるのである。
そしてこのような配慮を前提に考えれば、そもそも対話ができない相手(信頼関係が壊れてしまった相手や包摂する気がない相手)に関しては、初めから撮らないか、撮っても描かない(映像を使わない)という選択も必要になると言えよう。
(4)自作の事例と作り手の責任
ちなみに自作の例を出すと、僕の長編第1作は東日本大震災前から撮り続けていた漁村が津波で壊滅するまでを記録し、第2作はそこからの再生を記録したものだが、コミュニティが分断され、住民がバラバラになってしまった状態でも、2作とも元住民のための試写会を開催し(自分で直接ご案内を持って挨拶に回り、遠方の方には郵送した)、出演者たちの同意と地域の承認を得た上で作品を発表している。
また2作とも劇場公開をしているが、その後DVD・ブルーレイ化の際にも主だった出演者の同意を得た上で地域からの承認もいただき(多くの方に購入のご協力もいただき)、さらにオンライン配信を始めた際にも同様の手続きを経ている。そのすべての過程で、津波で亡くなった出演者のご遺族にも同意を得ている。
また被災地での支援やボランティアをテーマにした長編第3作に関しては、撮影から8年以上が経った段階で、その後連絡等も途絶えていた(主人公ご家族以外の)かつての出演者や関係者に連絡を取り、作品を観てもらった上で2021年3月11日の初上映に踏み切っている。この頃はコロナ禍だったこともあって、はじめからオンラインを想定して公開方法にも同意を得ている。
そしてこれら3作品の制作プロセスの中で、修正や削除の要望を受けて対話を試み、より良い形に改善できたこともあれば、苦渋の思いで作品の核となる映像をカットし、それによって構成を大きく変えたこともある。それは、当然ながら、映画を観た人には全く分からないようになっている。(被写体に配慮してここで詳しく書くことはしないが、自分にとっては映画の完成を1年諦めるほどのものだった。)
また第3作に関しては、画面には登場しない人の震災時のエピソードを使わせていただくに当たって、ご本人を知る人を手掛かりに連絡先を突き止め、ご本人からそのエピソードを使わせていただくための許可を得るということもあった。その方が映画を観た人から「あれってあなたのことだよね?」と聞いたときに、自分の知らないところで自分のエピソードが勝手に使われていることを人づてに知ったら嫌だろうなという思いがあったからである。そしてその方から同意をいただけたからこそ、何故その方を当時カメラで撮ることができなかったのか、上映後のトークで観客に語ることができている。
以上、話が長くなってしまったが、そのような形で、お世話になった方々や観客に対して堂々と胸を張って作品を発表できるよう、発表前にできる限りのことを尽くしてきたつもりである。
もちろん、被写体のパーソナリティもいろいろなので、中には「自分が見せた顔はカメラ向けなのだから、あとはご自由に」という人もいるのかもしれないし、逆に、ほんのちょっと映り込んだだけでも「自分の姿は一切カットしてほしい」という人もいるのかもしれない。(実際どちらも経験している。)
この辺はもはやケースバイケースで、のちのちどのようなトラブルになり得るかを想定して動くしかないのだが、いずれにしても、ドキュメンタリーは被写体からの協力(その人の人生の一部をお借りすること)で成り立っているので、その人を不特定多数の人に晒す以上、発表前に筋を通すのは人として当然の道義だと僕は思っている。
そして制作・公開に当たってもっとも繊細な対話が必要になるのが、主人公及びそれに準ずる被写体であることは言うまでもない。
その対話の具体的な中身に関しては、2024年度にある企画でドキュメンタリーにおける制作・公開のプロセスを10のパート(被写体への交渉・撮影・編集・確認・発表・その後の関係など)に分けて文章を執筆しているので、よければそちらをご参照いただきたい。
■「私的ドキュメンタリー制作ノート~対象との関わりから学んだ大切なこと~」
この企画で、僕は人の生き様や日常を撮るオーソドックスなドキュメンタリーを想定し、被写体との向き合い方や倫理面を重視して文章を書いた。
このうち第6回「試写(対象への確認を含む)」、第7回「発表(自主上映会・劇場公開を含む)」を読んでいただけると、発表前に被写体に作品を観てもらい、気持ちを整理する機会を持つことがいかに大事かがご理解いただけるのではと思う。
また、第9回「失敗談」では、被写体の同意が得られなくなった経験や、完成した作品を発表せずにお蔵入りすることになった経験についても書いているが、被写体の人生や生活を守ることも作り手の責任であることをここで強調しておきたい。
(5)法的尺度と道義的尺度の狭間で
以上、被写体の許諾や発表前の確認についていろいろ書いてみたが、これは僕の数少ない作品の経験を基にしたあくまでマイ・ルール的なものなので、法的にどうかというところについては僕はあまり詳しくないし、当然、他の作り手に強制するものでもない。
ただ、法的に問題ないから倫理的に問題ないというわけではないので、被写体への道義は単なる精神論や感情論で片付けられるものではなく、大事なことを判断する上での一つの指針として、ドキュメンタリーの作り手の間では一定のコンセンサスを持つものであることは間違いないと思われる。それはセルフドキュメンタリーであっても、そこに他者が関わる以上は同じことと思う。
一方で、こうしたことは法律で厳密に規定されていないだけに、その内実は作り手の考え方や作品の題材(作品が目指すもの)によって多少の違いがあるのも事実だと思う。実際に、作り手の多くがこうした議論に参加しづらいのも、それだけ曖昧なことや繊細なことをたくさん抱えているからなのだろう。そのことは僕も重々承知しているつもりである。
作品によっては、ときに道義的尺度よりも法的尺度を重視して被写体の確認なしに映像を使用し、そのまま公開する場合もあるのだろうし、戦場など秩序が著しく乱れた状況下では、被写体の意思よりも公益性が優先される場合もあるのだろう。また家族の認知症や死に目を撮った映画などは、その強い繋がりが一般的な同意の概念を超えることもあるのかもしれない。
そこには個別の事情もあるし、表現の自由も関係してくるので、一概には語れないのだが、いずれにしても、ほかの作り手の基準ややり方が自分と違うからといって、自分の考えを一方的に押し付けたり、即否定したりという単純な話ではないと思っている。(基本的にほとんどの作り手が意識高く作品を制作していると思うし、僕自身も例外的なことや至らないところは出てくるので、そこは作品ごとに柔軟に見ることが必要と思っている。)
また被写体との関係について、僕を含め、作り手の中には被写体と「一生付き合う」という覚悟でドキュメンタリーを作っている人が少なくないが、関わった被写体の全員がそのような関係を常に望んでいるわけではないし、作り手にとっても限界があるので、もっとドライな関係が成り立つこともおそらくはあるのだろう。そのこと自体は、僕自身決して否定はしない。
ただ、最近では制作・公開に当たって同意書を取り交わす作り手も増えていると思うが、書面で形式的な同意を得たとしても、人の気持ちは時間とともに変わるので、相手の安心のためにも「最初の同意がすべての同意ではない」し、「同意は覆せますよ」という前提で被写体と向き合うしかない。
そのため実際に被写体の気持ちを繋ぎ止めるのは、書面ではなく信頼関係でしかないと僕は思っている。最終的には、それが自身の作品を守るもっとも自然で有効な方法なのである。(もちろん、同意書は被写体の権利を守るため、あるいは被写体に何かあった場合に第3者が状況を把握するためのものとしては必要だと思うのだが。)
(6)作り手が被写体と向き合う中で育んだ倫理観と人権侵害防止の議論
そして、ドキュメンタリーの中でも、とりわけ自主制作・個人制作のドキュメンタリーがこのような被写体への道義を重視し、作品の発表後も手厚い配慮を続ける傾向があるのは、題材にもよるが、すべてが監督の責任だからこそ、被写体を単なる素材として捉えるのではなく、人として大切にするという意識が必然的に育まれるからなのだろうと僕は思っている。
被写体への確認のプロセスを大事にし、それが作り手の間で一定のコンセンサスや文化を形成しているのも、おそらくはこのことが深く関係しているのではないだろうか。相手を人として尊重しているからこそ、作り手は映画公開によって発生し得るさまざまなリスクも考慮して、自分の表現が人の人生や生活を脅かすことにならないよう、発表前に作品を観てもらい、対話に努めるのである。
そこでは当然、相手にどの程度の害やリスクを引き受けてくれる意思があるのかの確認も含め、本音と本音の交わし合い(ときにぶつかり合い)が必要になるが、作り手の主張と被写体の意向との間に生まれる摩擦や衝突を含め、対話の中から新たな価値や協同関係を生み出していくことが、自主制作・個人制作ドキュメンタリーの大きな強みでもある。
一方で、厳密な予算やスケジュール管理の元に制作を行うテレビなどは、被写体とこのような形の協同関係を構築するのが構造的に難しい面がある。そのため、テレビでは撮影時の同意は得ても、放送前に映像を確認する習慣は育まれていない印象が強い。
そしてそれがなくても許される背景には、おそらくテレビというメディアが公益性のある報道機関として大きな権威を持っていた名残もあるのではと思っている。それが作り手と被写体との間に(さらには視聴者との間に)ある種の権力勾配を生み出し、何となく、「テレビだから仕方がない」という暗黙の了解を作っているのではないだろうか。
これは、厳密にはテレビの中でもニュース、バラエティー、ドキュメンタリーなどで細かい違いがあると思うのだが、その権威は放送以外のプロセスにも影響を与え得る。
例えば、撮影に関しては、作り手の中で描きたいものが先に決まっていて、そのための素材を撮ることしか念頭にない取材陣がたまにいるようだが(震災直後の被災地ではよく耳にしたし自分も目にした)、それによって、取材された側が「利用された」と感じてしまうこともしばしば起こり得る。こうしたことは、スタッフ個人の特性があったとしても、テレビが持つ権威が影響している部分も多分にあるのではないだろうか。(もちろん逆も然りで、その権威が被写体にとっての信用や魅力となり、双方が共有する「伝えるべきこと」を形にするための協同関係を築きやすくなるという強みもあるとは思うのだが。)
そのため、テレビでは放送前に被写体に確認しないことが当たり前だったからといって、イコール問題ないというのは個人的には違うのではと思っている。
今回はこの辺は詳しく触れないが、だからといって、テレビと比較して自主制作・個人制作のドキュメンタリーが優れていると言いたいわけではないし、自主制作・個人制作のドキュメンタリーに問題がないと言いたいわけでもない。僕を含め、潜在的に傲慢で人権意識が低い作り手はたくさんいるはずだし、被写体との関係性によっては、そこに権力勾配が生じることもある。
そして比較的自由度が高いからこそ、作り手のエゴが前面に出やすいという危険もあるし、さらには一人で動きやすい反面、自分を客観的に見て、自分の問題点を正してくれる人が身近にいないという状況も発生し得る。
その結果、自分の力を過信して、被写体の「NO」を軽視して取り返しのつかないことになってしまったり、ハラスメントなど重大な問題に繋がってしまったりすることもある。(この作り手のエゴがハラスメントに繋がる構造については、自身のブログ「人を記録し、表現するということ②」で自身の経験を踏まえて具体的に書いている。)
だからこそ、ドキュメンタリーがその制作の過程で関わる人を不幸にしないよう、同業者で絶えず倫理的・人権的な議論を続け、それを可視化していく必要があるのではないだろうか。そこに自主制作・個人制作・テレビ制作といった違いや、年齢や実績も本来は関係ない。
そうして、これまでも多くの先人たちが作り手の持つ特権性や映像の持つ加害性を自覚しながら、大事なことを言葉にしてきた。
加えて、近年では一部の有志(団体であれ個人であれ)の取り組みのおかげで、映画業界内の性加害やハラスメントの実態が少しずつ明らかになっており、こうした問題が個別の作品や個々の作家の資質に留まらない、さまざまな交差性を孕んだ社会の構造的な問題であることも分かってきている。
このように、業界内だけで完結しがちだった議論は、さまざまな分野と関係しあってより多角的になってきているのである。
その中で、僕自身も自分の理解を更新し、自省・自戒を込めながらこれまでドキュメンタリーに関する文章を発信してきたつもりである。
本稿で便宜的に使用している「被写体ファースト」という言葉も、こうした自省・自戒の中で見出した、大事なときに常に立ち返るべき行動理念(最終的に作り手のエゴよりも被写体の人権を優先すること)の意味合いを含んでいることを、ここで改めて確認しておきたい。
第3部 『Black Box Diaries』をめぐる議論をどう捉えるか
(1)『Black Box Diaries』の制作・公開プロセスへの批判の経緯
以上、第2部では自身の経験に基づくドキュメンタリー観や制作倫理、そして業界内で少しずつ進んできた人権侵害防止の議論などについて細かく整理してみた。これを具体的に示すことは、『Black Box Diaries』の制作・公開プロセスの問題を議論する上で大事な前提と考えたからである。
そして時系列的には前後してしまうが、このような背景や文脈の中で、僕は『Black Box Diaries』以前にも、被写体ご本人や関係者の告発によって公に浮かび上がったドキュメンタリー業界内の問題(具体的には松江哲明監督『童貞。をプロデュース』問題以降の男性監督たちによる問題)に対して、微力ながら言及してきた。
その過程で、2023年10月に、有志が「ドキュメンタリー制作現場でのヒヤリハット事例雑談」を企画した際には、自らの事例も提供し、一参加者としてトークイベントを聴いて感じたことをブログでも書いている(参考:「ドキュメンタリー制作現場でのヒヤリハット事例雑談」に参加して)。
また、2023年12月に、東京ドキュメンタリー映画祭がプログラム・ディレクターの性加害問題による退任を受けてトークセッションを開催した際には、登壇者の一人として参加させていただいたし(参考:誰もが安心・安全に参加できる映画の現場を目指して)、少し前にはXで是枝裕和監督の問題も2度にわたって計23ポストで批判している(参考①:2025年2月3日の5連続ポスト/参考②:2025年6月27日の18連続ポスト)。
これらのことから、伊藤詩織さんだけを急に批判し始めたわけではないということはご理解いただきたい。(もちろん、過去の男性監督たちの問題と伊藤さんの問題を同列に捉えているわけではないことも念のため補足しておく。)
また、僕自身、近年ではラディカル・フェミニズムの影響を強く受け、ここ1年半ほどはAVやデジタル性暴力の問題(出演強要・同意の誘導・グルーミング・性加害肯定表現といった問題以前の根本的な問題)についてもXやブログで積極的に発信してきた(参考①:性暴力・性搾取・性犯罪をなくすために男性がすべきこと/参考②:AVの是非をめぐって~性暴力コンテンツに溢れる社会を変えるために~)。
これに関しては、性搾取を特権側である男性側の問題として、男性の立場から社会に根付く女性蔑視を変えたいという動機で発信してきた面のほうが大きいが、その過程で、ミソジニーを拗らせたアンチ・フェミニストから数々の嫌がらせ(殺害予告を含む)を受けており、この社会で女性が置かれている立場や女性が表に立つことの大変さはある程度理解しているつもりである。
そのことからも、伊藤さんを叩く意図は全くないことだけはここに明記しておきたい。
その上で、僕が今回伊藤詩織監督『Black Box Diaries』に言及したのは、ひとえに被写体でもある西廣陽子弁護士が声を上げたからに他ならない。論点は複数あるが、僕の中ではこのことが一番大きい。
声を上げることがどれほど大変かは、性暴力やハラスメントに関心のある人ならある程度想像できるのではないだろうか。もちろん、過去の作品を含め、声を上げられずに人知れず苦しんできたたくさんの被写体の存在もものすごく大事だが、すべての問題に自分から介入するのは難しいので、ひとまず僕たちは声を上げた被写体の思いに応えるしかない。(原一男監督『ゆきゆきて、神軍』のカメラの暴力性や森達也監督『i-新聞記者ドキュメント』の裁判所内の盗撮は、それはそれで議論が必要とは思うのだが。)
そして、長年伊藤さんを支援してきた西廣さんの立場的に、そこまでして声を上げることにはそれなりの背景や痛みがあると考えるのが自然である。それは例え法的尺度とは別の感情的なものであったとしても、僕たち作り手からしたら向き合わなければならない正当な痛みなのである。
一方で、指摘されている問題点の中には、僕自身答えが出せないものもある。
例えばホテルの防犯カメラの映像については、今回の件があったからといって、その後の性被害者の裁判にどれだけ影響するのかは正直分からないし、分からないからこそ、専門家や性被害当事者の懸念を考慮して安易な発言は控えていた。
また、その扱いも現状さまざまな縛りがある以上は、表現や芸術だから特別にそれを覆してよいということにはならないと思うので、僕なら違う形で表現することを考えたのかもしれないが、伊藤さんにとってそれがどうしても必要で、それを許諾を得ずに使用したというただその部分のみに関して言うならば、そのような映画がこの世に存在したからといって、僕自身がその映画を積極的に問題視したかというと正直微妙なところでもある。
ただ、そこには被写体である西廣さんが深く関係している。そして被写体の権利や尊厳に関する部分については、作り手でなければ言えないことが絶対にある。僕がこの件に言及する一番の理由はそこなのである。
(2)「被写体ファースト」の目に映る現在の状況
僕は『Black Box Diaries』は未見だが、西廣さん及び伊藤さんの元弁護団は、おそらく劇中でそれなりの役割を担ってくれていたに違いない。そして西廣さんが映画の発表前に確認させてほしいと伊藤さんに伝えていたことからも、それは本人の人格や実生活(弁護士の仕事)にも密接に関わるものであったことは想像に難くない。
それにもかかわらず、その約束を反故にされたまま初上映がなされてしまった状況は、どのような事情があれ、作り手の立場からしたら批判せざるを得ないことは、僕自身第2部で書いてきたとおりである。しかも海外版では、西廣さんの訴え虚しく、すでにご自身の未修正の映像(オリジナル・バージョン)が配信・DVD販売までされてしまっているのだから。
伊藤さんが、最初から西廣さんを包摂すべき対象ではなく、批判すべき対象と見なし、西廣さんにその立場を明確にしてきたのならまだ話は分かる。しかし、おそらくはお互いにそういう関係とは思っていなかったからこそ、西廣さんは深く傷付き、苦悩したのではないだろうか。(会話の無断録音自体は、性被害当事者のみならず困難な状況にある人にとって必要な場面も出てくると思うので、僕はそこは必ずしも否定はしない。)
その抗議の声を「大したことではない」と周りが一方的に決めるのは、僕は違うのではと思っている。何故なら、すでに書いてきたとおり、被写体の事情やその繊細で複雑な思いは作り手や観客には絶対に分かり得ないものがあるからだ。「映画を観ても何も問題なかった」と、本人以外の人が一方的に決められるものでもない。
それに、被写体になることを承諾したからといって、最初の同意がすべての同意というわけではないし、被写体だからといって誰もが常に何でもさらけ出せる準備ができているわけでもない。それは被写体が専門職でときに権力で上位にあろうと、作り手が「描く側の特権」を有している以上は同じなのである。そこでは、「嫌なものは嫌」という気持ちは誰であっても尊重されるべきなのである。(なお、支援者と被支援者との間に生まれる問題については、僕も支援に関する映画を作っていることと、介護現場に深く関わっていること、そして障害・難病・性被害当事者の友人からその実態をよく聞いていることからもある程度理解しているつもりである。)
その被写体の「NO」の意思が、本来それを一番理解できるはずの人たち(主に同意を重んじるフェミニストやサバイバーの方々)によって、何故今ここまで軽視されてしまっている(ように見受けられる状況になっている)のかと、僕はどうしても思ってしまう。(もちろん、そこにはご自身の被害経験や支援者との関係を伊藤さんや映画に投影している部分もあると思うのだが。)
その上、映像によって傷付けられたご本人が今も抗議の声(社会の性被害者への対応のあり方など自分以外の問題も含む)を上げ続けている中で、ご本人の映像を観るのが果たして良いのかという気持ちがあり、僕は現状映画を観ることができない。その気持ちは、誰に非難されるものでもないと思っている。(もちろん、『Black Box Diaries』の場合、もうここまで広まっているので検証のために観るという選択肢はあると思うのだが、僕は作り手の立場からあくまで制作・公開のプロセスの問題について言及しているので、観ないと何も言えないというものではないと思っている。)
誤解のないように断っておくと、僕は映画を観て感動した人たちの気持ちに水を差すつもりは全くないし、「観るな」と言うつもりも全くない。(自分が観ることができないのは、単に自分の個人的な道義の問題に過ぎない。)
そしてこの件に対する自分の考えが絶対に正しいと思っているわけでもない。
一方で、伊藤さんを擁護する人たちが、西廣さんの部分に関して、「弁護士なんだから我慢すべき」とか「大した被害ではない」などと言い切ってしまうのは、逆に西廣さんへの二次加害には当たらないのだろうかと心配になってくる。
もちろん、伊藤さんの性被害の重さも大事だし、性暴力の現実を変えることも大事である。間違ってもそこに異論はない。『Black Box Diaries』の制作・公開のプロセスを批判している映画人たちは、おそらく誰一人としてそこに異論はない。
しかし作品を生み出す苦しみを知っているからこそ、この作品が幸せな形で羽ばたけるよう、ヤン・ヨンヒ監督をはじめ、ドキュメンタリーの作り手たちは、自身の経験を交えながら意見をしてきたのではないだろうか。
それは何よりも作品のためである。そして作り手がそれを言わなかったら、ほかに誰が言えるのだろうか。
(3)作り手たちへの批判の推移と今自分が文章を書く理由
少なくとも、僕はそういう気持ちで、作品が西廣さんを含めみんなにとって良い形で公開できるよう、部外者ながら願いを込めて発言してきたつもりである。そして僕のXの投稿をちゃんと読んでもらえれば、そこは伝わるはずである。(もちろん、本当はXで呟くだけでなく、ご本人に直接言えれば良かったことなのかもしれないが。)
かといって、ここまで事態が進んでしまった以上は、もう何を言ってもしょうがないので、自分の発言が単に伊藤さんを叩きたい人たちに利用されたり、伊藤さんを変に追い詰めたりすることにならないよう、基本的には黙っていようと思っていた。
ところが、伊藤さんを批判する作り手たちへの風当たりが強くなるにつれて、その批判の中には「ムラ社会的」「嫉妬」といった本来の論点とは異なる言説が飛び交い始め、作り手たちの批判の文脈が書き換えられるようなことが起き始めた。
そして作品の称賛とともに、伊藤さんを擁護する人たちからは「ドキュメンタリーの常識なんて知ったことではない」「元々何の問題もなかったのだから元のバージョンを公開すべき」といった極論のようなことまで言われ始めるようになり、まるで西廣さんの訴えなど無かったかのように、「作品さえよければ被写体の痛みなど些細なこと」とでもいうかのような言説が多くの支持を集めてしまう状況になってきた。
同時に、「ドキュメンタリーにおいて、高い公益性があれば、違法でなければ、人を傷付けることもやむなし」(意訳)といった一部の作り手の言葉が強い支持とともに拡散され(もちろん、制作の過程で被写体を傷付けてしまうことは誰にでもあるのだが、普通は発表前に何らかの解決をするため、傷付けたままにはしておかないのが道義である)、多くの作り手たちが現場で被写体と向き合う中で丁寧に積み重ねてきた倫理観が社会的に軽視されてしまいかねない状況にもなっている。
そうなってくると、そこにはまた別の看過できない問題が生じており、僕としてはこちらの問題を何とかしなければならないという気持ちの方が強くなってきた。
もちろん、僕自身、すでに書いてきたとおり、自分のことを棚に上げて偉そうなことが言える人間では全くない。伊藤さんや他の作り手に比べれば、大した実績も知名度もないので、その意味では、僕が何かを言ったところで何の影響力も説得力もないのかもしれない。
それでも今発言しようと思うのは、僕自身、これまで「描かれる側の繊細な気持ちを置き去りにしてはいけない」、「映画や社会的意義のために誰かの人生が存在しているわけではない」、「伝えることの大切さや知ることの大切さのために誰かの尊厳が蔑ろにされてはいけない」、「作り手が勝手にやりたいことのリスクをもっとも引き受けるのは被写体である」、そして「表現が互いにより良く生きるための方法として活用されることがドキュメンタリーにとって大事なことである」ということを事あるごとに言い続けてきたからである。
そしてこれを繰り返し確認するのは、ドキュメンタリーがその制作・公開のプロセスにおいて関わる人の不幸を生み出さないためというのが一番の目的だが、それは同時に、ドキュメンタリーの豊かさや信頼性、そして表現の自由を守るためでもある。
『Black Box Diaries』の制作・公開のプロセスを批判する声を「ムラ社会的」「嫉妬」と捉える方たちには、どうかこのことをご理解いただけたらと切に願っている。
(4)分断に対する自身の解釈と「擁護派」「批判派」に共通する“願い”
その上で、性暴力のサバイバーが直面している現実を鑑みたときに、伊藤さんがここまで事態を進めてしまった事情も理解はできるし、擁護する人たちの気持ちも理解はできる。繰り返しになるが、伊藤さんが順番を間違えてしまったからといって、僕も過去の男性監督たちの問題と同列にこの問題を捉えているわけではない。
そのため、作り手として批判しながらも、伊藤さんを擁護する人たちの言う、「作品への批判そのものが伊藤さんへの二次加害に加担し得る」という言説も、「それが加害者(性暴力容認社会)を利することになる」という言説も、全く理解できないことではない。だからこそ、非常に難しい問題と感じている。
以前、Xのポストで、「セルフドキュメンタリーであることが事態をより複雑にしていると思う」と書いたのも、これらのことが関係している。
これはあくまで僕の見立てだが、おそらく伊藤さんご自身が映画の主人公であることで、ご自身が見てきたこと、感じてきた世界をしっかり表現したいと思う気持ちが前のめりになり、作品に関わる被写体への配慮よりも自身の表現欲のほうが優先されてしまったのではないか。(それはセルフドキュメンタリーが構造的に陥りやすいところでもある。)その結果、被写体への配慮に十分な意識が向かないまま、修正が難しい段階まで来てしまったのではないか。
それでも、「一人で闘ってきたサバイバーが映画によって救われるためには、性暴力の現実を伝え知るためにはそれもやむなし」という考えの人たちが、伊藤さんを一生懸命守り、一方で「被害者の回復や正義を貫くためなら、その過程で生まれた他者への加害を見過ごしてよいのか」という考えの人たちが、西廣さんの思いを汲み、いわゆる「擁護派」と「批判派」の分断が進み、ここまで議論が複雑化してしまったのではないか。
上記の言葉はそういう意図で書いている。決してセルフドキュメンタリーという手法がダメとか主観がダメとかそういう意味で書いたわけではない。(僕はそもそも作品を観ていないし、自分でドキュメンタリーを「事実の断片を作り手の意図に沿って再構成した創作物」と言っているように、伊藤さんがやりたかったことや描きたかったストーリーそのものに対しては何か言うつもりはない。)
それで言うと、『Black Box Diaries』をめぐるいわゆる「擁護派」と「批判派」の分断の核心というのはもはや、「伊藤さんのサバイバーとしての側面を重視して西廣さんの被害を相対的に軽視するか」、もしくは「伊藤さんの監督としての側面を重視して西廣さんの被害を相対的に重視するか」の違いなのではと思う。そこでどちらを重視するかは、その人が持つ当事者性や価値観・背景によって変わるのだろう。
そうなると、現状、伊藤さん側と西廣さん側で一定の和解に達していない以上、僕としては「被写体ファースト」に考えるしかない。そして伊藤さんを批判している作り手の多くもおそらくはそうだと思う。何故なら作り手だからこそ、伊藤さんの作り手としての側面(アイデンティティ)を大事にしたいと思うからだ。(逆に僕が作り手でなければ普通に応援していた可能性もある。)
そう考えると、今起きているいわゆる「擁護派」と「批判派」の分断というのは、大枠で捉えるならば、「社会から性暴力やその二次加害を無くしたい」と願い行動する人たちと、「映画制作の現場における性暴力やハラスメントなどの人権侵害を無くしたい」と願い行動する人たちの認識の違いによる齟齬とも言えるのではないだろうか。
それは、どちらが正しいにしても間違っていたにしても、どちらの動機も切実で「正しい」と僕は思うのだ。
そして「批判派」の願いの中には、「擁護派」の願いも同じく含まれているということを、どうか忘れないでいてほしいと思う。
(5)おわりに
伊藤詩織監督『Black Box Diaries』をめぐる議論について、自身の思考の整理のためにいろいろ書いてみた。
書きながら、どうすることが解決なのか、僕には分からない。伊藤さんと西廣さんの間で何らかの和解や合意に達すれば一番いいのだが、部外者の僕が簡単に言えることでもない。
また、詳しいことは分からないが、『Black Box Diaries』の制作・公開のプロセスには海外の数名のプロのスタッフが関わっているようなので、そうなると多くの人が指摘しているように、伊藤さん個人の責任というよりかはチームとしての責任(さらには作品に関わる配給・流通などの組織的・構造的な要因)が大きいのではと思っている。
もしかしたら、そこで板挟みになって苦しんでいるのは伊藤さんも同じなのかもしれないと思うと、僕もいたたまれなくなってくる。
そのため、ここまで事態が進んでしまった今となっては、映画に対して何か言いたい気持ちはとくになく、ドキュメンタリーにおいて最も繊細で大切な「被写体への配慮」を確認する意味合いで発言している。それが社会的に軽んじられてしまう空気は、被写体(西廣さん)にとって脅威だし、これからのドキュメンタリーにとっても良くないことだからだ。ドキュメンタリーの作り手として、そこは守らなければならない。
ただ、それとは別に、矛盾しているかもしれないが、映画に感動した人たちの気持ちは大切にしたいし、伊藤さんのことも応援したいと思っている。伊藤さんは、本来こうした被写体への配慮がちゃんとできる作り手であることを、僕は信じたい。
そして最後に、このような混乱も分断も、元はと言えば性暴力から来ていることを考えると、やはりそれは社会から根絶していかなければならないと切に思う。
だからこそ、僕は決して分断を望まない。この件で意見が違うからといって、その人の全てを否定したくはないと思っている。
いろいろ書きながらも、今は伊藤さんと西廣さん双方の心身の健康を願うばかりである。

参考資料:『Black Box Diaries』に関する自身のXの投稿まとめ
■2025年1月31日の10連続ポスト+2月9日の補足のポスト
■2025年2月20日の10連続ポスト
■2025年10月26日~11月7日のポスト
■2025年12月17日の3連続ポスト
■2025年12月22日の2連続ポスト
■2026年1月8日~1月10日の6連続ポスト
■2026年1月14日の10連続ポスト






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