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  • 執筆者の写真Kazuki AGATSUMA

「ドキュメンタリー制作現場でのヒヤリハット事例雑談」に参加して

2023年10月5日(木)~12日(木)にかけて、18回目となる山形国際ドキュメンタリー映画祭が開催された。


■山形国際ドキュメンタリー映画祭


1989年から隔年で開催されるこの映画祭は、日本でもっとも信頼の厚いドキュメンタリー映画祭として目標としている作り手も多く、毎回世界中から多くの作品と映画人が集まる。


かく言う僕も、第1作を完成させる前からこの映画祭を目標としていて、2013年、2017年、2021年と3作品すべてを上映していただいている。


その映画祭期間中の9日(月・祝)、映画祭の公式プログラムとは別に、有志による「ドキュメンタリー制作現場でのヒヤリハット事例雑談」というイベントがとあるカフェスペースで開催された。


■「ドキュメンタリー制作現場でのヒヤリハット事例雑談」


趣旨についてはこう書かれてある。



近年、日本のドキュメンタリー映画制作の現場で発生した、性加害を含む数々の問題が明るみに出てきました。

いかなる暴力も差別も許されないという思いがある一方で、ドキュメンタリー映画の作り手としては、自分たち自身も無自覚なままに加害側になる可能性について考えないわけにはいきません。悪意はなくとも、より良い作品を完成させようとするあまり、被写体や関係者を傷つけてしまった経験は誰にもあるのではないでしょうか。

制作現場での倫理が厳しく問われている今、誰にとっても安全な環境の下で作品を生み出していくために、まずは小さな一歩として、制作者たちがこれまでに現場で経験した「ヒヤリハット事例」を共有する場を有志でヤマガタ(山形国際ドキュメンタリー映画祭2023期間中)に設けることにしました。

具体的には、監督、プロデューサー、スタッフなど、ドキュメンタリー制作に関わる立場の方達に「制作現場でのヒヤリハット事例(ヒヤリとしたり、ハッとした、重大な問題につながりかねなかった経験)」を事前に募集し、その中のいくつかを小さな会場で共有しながら話し合うイベントを開きます。

会場で共有された事例と関連する議論は、共有してくださった方や発言された方の確認・同意が取れたものについてのみ、後日、文章として広く共有できたらと考えています。

誰かを断罪したり糾弾する場ではなく、お互いに牽制しジャッジし合う場でもなく、なかなか共有される場がなかった個々の知を、コミュニティでの共有知へ開くことで、互いに学び合い、それぞれの安全な制作に活かしていく「ヒント」が得られる場にできたらと思っています。

ドキュメンタリー映画制作者有志の会


僕は関係者からこのご案内をいただいてから、とても大事なことと思い、早速自分自身の事例を可能な範囲でフォームに書いて送信した。そして映画祭に参加できる日程が限られている中、このイベントに参加することを一番の目的として山形に向かうことになった。


イベントには定員の30名ほどの人が参加し、名編集者の秦岳志さんのファシリテートの元、監督の立場から小田香さん、島田隆一さん、戸田ひかるさんらが登壇し、事前アンケートで得られた事例を元にそれぞれの実体験が語られた。


時間の関係で会場からの発言の機会は少なかったが、それぞれの事例が、自分は直接は経験していないこととはいえ、重なることが多く、考えさせられる時間となった。


以下、イベントの数日後に自身のX(旧ツイッター)で呟いた40連続ポストについて、せっかくなのでこのブログにも掲載しておきます。たくさん交わされた話の中で、時間があれば自分も発言しようと思っていたことについてメモ的にまとめたものなので、イベント全体のレポートではないのでご了承ください。


※「ドキュメンタリー映画制作者有志の会」でレポートをアップするとのことだったので、それを踏まえてこの記事を公開しようと思っていたのですが、みなさんお忙しいのか僕の勘違いだったのか、4ヵ月経った今もアップされる様子がないため、今更ですがとりあえず公開します。(レポートがアップされたらこちらに添付します。)



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【2023年10月15日の自身のX(旧ツイッター)より】


①10月5日(木)~12日(木)の8日間に亘って開催された山形国際ドキュメンタリー映画祭。僕は一観客として2泊3日参加したが、その中でも一番の目的は映画祭とは別口で有志によって企画された「ドキュメンタリー制作現場でのヒヤリハット事例雑談」(9日開催)に参加することだった。


②「安心・安全な環境で議論できるように」という主催者側の入念な配慮のもと、事前に募集したアンケートからいくつかの事例が匿名で紹介され、それを受けて登壇者の監督たちの事例や対応などの議論が交わされた。どの事例も他人事ではなく、全く同じ経験ではないにしても、共感できるものが多かった。


③その中で出てきたいくつかの言葉を受けて、僕も時間があれば発言しようと思っていたことを以下に残しておきたい。(あくまでたくさん議論された話の中で、個人的に「ここもうちょっと掘り下げたいな」と思った部分だけを自分用に整理しているので、イベント全体のレポートではないので悪しからず。)


④まず同意書の件。僕の場合、過去の制作の経験を踏まえて、新たな企画を進める際には映像の扱いや被写体の権利について書いた企画書兼説明書みたいなものを用意している。これは、撮影開始時点ではどうなるか分からないことも多いものの、被写体の方々に安心してもらうことを第一目的に用意している。


⑤ドキュメンタリー制作の現場では、一般人の方を対象にする場合が往々にしてあり、そもそも撮られたり人目に晒されたりすることへの耐性が全く無い人も多い。さらに、撮影から公開のあらゆる制作プロセスを具体的にイメージできる作り手と違って、そうではない被写体との間には大きな情報格差がある。


⑥そのような被写体に対して、分からないことや不安なことがあればいつでも相談してくださいということと、完成前には必ず連絡して確認しますということを明記することによって、被写体の不安を軽減することがこの説明書の一番の目的となる。それ自体は企画の初期段階でも約束できることである。


⑦もちろん、作り手側にしてみれば、それを明記することによって制約がかかったり判断が難しくなる場面も出てくるかもしれない。例えば映像にほんの少ししか映らない人が、撮影時点で企画の趣旨やオンライン公開も含めた映像の扱いに了承してくれたなら、それはそれでOKとできる場合もあると思う。


⑧そのため個別のケースごとの対応も必要となるが、いずれにしても重要なのは、この説明書は自分に有利に物事を進めるためのものではなく、被写体の権利を保障するためのものであるということである。これは自分本位で被写体への配慮や対話が足りず、失敗ばかりしていた自身の改善例の一つでもある。


➈ちなみに、10年以上前の映画祭で作り手と被写体の関係をめぐるシンポジウムがあった。その中で、海外の制作者が同意書の事例を語る場面があったのだが、当時の僕は、そうして作り手と被写体の関係を事務的にしてしまうのはドキュメンタリーには合わないのではと考え、その疑問を制作者に投げかけた。


⑩その質問に対する答えだったかは定かではないし、シンポジウム全体の内容も今となっては全く覚えていないのだが、その制作者が「同意書は被写体を守るためのもの」と念押ししたことだけははっきりと覚えている。にもかかわらず、僕はその後何年もの間自分の考えをアップデートすることは無かった。


⑪そこには「寄り添う」などの情緒的なものや「作り手の覚悟」といった根性論ですべてカバーできる(しかもそれが作品を唯一無二のものに押し上げる)という思い込みがあったと思う。しかしそれが被写体との間に大きな温度差のある、作り手の独善であるということを、のちに思い知ることとなった。


⑫以上のことから、障害者の権利やバリアフリーが「優しさ」や「思いやり」といったあやふやなものでは保障できないのと同じで、ドキュメンタリーにおける作り手と被写体の関係も、人権的な観点から見つめ直すことの必要性を強く感じるようになった。それは、ここ数年での自身の大きな変化でもある。


⑬次に、被写体の気持ちの変化について。これは大きく2つの視点から語れると思う。まず一つは、先述の情報格差の話と通じるが、作り手と被写体との間でどのような前提を共有しているかによって、被写体の認識や作品との関わり方は大きく変わってくるという、合意形成の一側面からの視点である。


⑭被写体に与えられる情報(例えばどのような目的で何をどう撮っていくのか、それがどのような形で、どのような人に向けて発表されるのか)によって、被写体が出せる顔や許容できるものは変わってくる。ある時点では出演に同意してくれていたのが、意図を掘り下げて話すとそれが変わることはよくある。


⑮そのため、中には悪意を持って大事な情報を隠し、目的遂行のために誘導し、人の人生を都合よく消費しようとする人もいるかもしれない。僕はこれをグルーミングや性搾取業者の手口に例えているが、そこまでの悪意は無いにしても、重なることがあることは多くの作り手が自覚しているところだと思う。


⑯しかしこうした明らかな悪意とは別に、撮り始めはしたものの、相手に遠慮して本当の意図を言い出せないという場合もある。とくに作り手の経験が浅い場合、自分に自信が持てないからこそ、自分が傷付くことや相手との関係を壊すことを恐れて曖昧な状態をズルズル続けてしまうということもある。


⑰しかしそのまま進めては被写体も疑問に思い、お互いに苦しくなってしまう。そこでは本音の議論を交わすことが何より重要になってくる。そもそもドキュメンタリーが、被写体にさまざまな負担を背負わせるリスクのある表現である以上、これは当然の義務であり、若いから許されるというものではない。


⑱本音を伝えた結果、当初の合意と変わって被写体の気持ちが変わればそれはそれで仕方ないし、逆に良い方向に変わる可能性もある。だからこそ、被写体との丁寧な合意形成、そしてそのための時間やプロセスごとの更新が必要なのだということを、経験の豊かな作り手は後進に親身に伝えていく必要がある。


⑲そもそも本音の議論が交わせなければ、被写体をさまざまなリスクから守ることはできないし、経験(制作だけでなく人生経験や社会経験も含む)が浅いとそのリスクを想像することも難しく、逆に自分本位な考えに囚われてしまう。そうして無理に進めることは大きなトラブルを引き起こすことにも繋がる。


⑳そうならないためにも、被写体の思いを確認し、意見を受け止め、想定されるリスクについて一つ一つ検証するという手順を作り手はしっかり踏む必要がある。そうして被写体が自分の言葉で整理し、納得するからこそ、完成した作品は被写体の人生の中で肯定され続け、上映を続けていけるのである。


㉑ただし、こうした丁寧なプロセスを経たとしても、被写体の生活環境の変化によって考え方や価値観に変化が生じ、過去の自分の姿を改めて広められることが苦痛になってしまうこともある。制作に長い時間をかけたり、題材がセンシティブであればあるほど、こうした傾向はより強くなると思う。


㉒このとき、被写体が対話に応じてくれるなら、作品の方向性を一緒に考え、より良いものへと発展させることもできると思うが、場合によっては議論の余地なく拒否されてしまうこともある。また作品がすでに完成してある程度広まったものならば、それに後から変更を加えるというのもなかなか難しい。


㉓このような場合、各々の作り手がどのような対処をしているのかは非常に気になるが、被写体にとっては知られたくないことでもあるので、詳細を聞くことは難しい。これについては作り手側で対策を講じることが非常に難しいが、先述の合意形成のあり方とはまた別な視点からの問題として挙げておきたい。


㉔ドキュメンタリーは事実をそっくりそのまま描くことができないからこそ、そのフィクション性から立ち上がる物語と観客の自由な解釈が大きな意味を持つ。しかしそれが被写体にとって受け入れがたいものだとしたら、鑑賞という行為は新たな価値を生むどころか、被写体を苦しめ、不幸にしてしまう。


㉕だからこそ、いついかなるときも、作り手は被写体の気持ちを第一に尊重しなければならないということは忘れないでいたい。自分の思い通りに現実をコントロールするのではなく、対話を通して世界への理解を更新し、それを作品や作品を語る言葉に反映することが大切であるということを常に意識したい。


㉖次に、「共犯関係」という言葉について。僕の知る限り、この言葉を最初に使ったのは佐藤真監督と記憶しているが、僕はドキュメンタリーにおけるこの言葉の使い方は見直す必要があると思っている。そこには自分たちの表現に対するシニカルさも含まれているが、作り手の独善のような印象が否めない。


㉗例えば原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』(1987)のように、カメラが刺激物(起爆剤)となって対象が自らの行動を過激に劇化していくようなものには当てはまるのかもしれないが(この場合のカメラの影響の是非は置いておいて)、多くの場合そうではなく、別に対象が悪いことをしているわけでもない。


㉘つまりこの言葉の背後には、作り手のエゴに対象を巻き込むことを美化するナルシズムがあって、対象との間に温度差を感じてしまうのである。しかし当の対象からしてみれば、別に悪事に付き合うつもりはないはずである。そこには作り手本位の思い込みやシンライカンケイへの無批判な信仰も垣間見れる。


㉙現実に影響を与えてしまうというドキュメンタリーのフィクション性に対するシニカルさはそれはそれで必要だし、もしかしたら温度差も含めてシニカルに表現している部分もあるのかもしれないが、作り手と対象との相互作用を表現する適切な言葉はケースに応じて異なるはずというのが僕の考えである。


㉚例えば対象の望む生き方に沿って映画が同伴し、場合によっては望むところに向かって映画が一緒に切り開いていくというときに、その相互関係までも「共犯」と呼ぶのかどうか。かといって作り手側が勝手に「共同」や「協同」と言ってしまうのもまた傲慢な気がするし、この適切な言葉探しは難しい。


㉛誤解の無いように補足しておくと、僕は別に「共犯関係」という言葉を使う人を批判したいわけでは全く無くて、先人たちが積み上げてきた言葉の一つ一つを吟味していくことも必要なのではという話である。それでいうと、過去にはものすごく影響を受けた作家でも、今は疑問に思うということが多々ある。


㉜以上、たまたま議論の中で出てきた3つの言葉について思ったことを書いたが、別にここに書いたことを主題として議論が行われたわけではもちろんない。さまざまなことが議論された中で、僕自身、時間があればこの部分について発言して補足したかったなという、単なる個人的なメモ(思い付き)である。


㉝また、今回の議論の中で、対象の思いを置き去りにして物事を進めないよう、リスク面の管理者や倫理面のアドバイザー的役職が必要なのではという話が出たが、これは個人制作者にとっても切実な課題である。明確な役職でなくても、自分一人で進めず、信頼できる人に相談できる体制は必要不可欠である。


㉞僕の場合、こうした役職に該当する人が身近にいて、その人が疑問に思ったことはすぐにぶつけ、叱ってもくれる。それ以外にも、作り手同士のコミュニティをともに運営する仲間たちとの間で、作り手の倫理について常に議論する環境もある。それでも、自分の力を過信し、失敗してしまうことはある。


㉟そのような経験も含め、ドキュメンタリーを愛する人たちが、ただ実績のある人間同士で固まって楽しむだけでなく、まだ何も残せていないこれからの作り手のことを気遣いながら、一緒に議論し、共有し、継承していける環境がいろんなところで必要だと感じる。そのために、僕もできることをしたい。


㊱正直、僕自身、もうドキュメンタリーを続けることは限界だと感じることはたくさんある。ドキュメンタリーは厳しい倫理観が求められ、制作に時間がかかるものの、基本的にお金になる見込みがない。しかもお金にすることを考えた途端、根本的に大事なことが瓦解してしまうという繊細な側面がある。


㊲一方で、倫理観など無頓着なインフルエンサーが、加害をエンタメ化し、それが多くの人に視聴されてお金になってしまっているという現状を見ると、その格差に愕然としてしまう。だからといって同じことは絶対にやる気はないし、ならば売れなくて上等という気持ちで、もう割り切ってやっている。


㊳ただ、これも議論の中で出てきたが、予算があって、人員がしっかり整っているからこそ、しっかりとしたリスク管理ができるという側面もある。そういう意味では、業界の倫理面の維持や向上のためにも国の文化支援も必要なんだろうなと思うが、とくに日本においてはそれが期待できない状況にある。


㊴そんな中でも、このような世界に関心を持っている若者が一定数いるのだと知ることはとても嬉しいし、励みになる。今回2泊3日参加する中で、2晩ともドキュメンタリーを学ぶ学生と言葉を交わす機会があったが、彼ら彼女らがより豊かな魅力を発見できるように、僕もがんばらねばという気持ちもある。


㊵そんな感じで、いろいろと思うことはありますが、とりあえず今回の「ドキュメンタリー制作現場でのヒヤリハット事例雑談」に参加して思ったことのほんの一部を書きました。最後に、こういう大事なことを議論する上では、もっと長めに時間を取っても良かったかなと思います。



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