私的ドキュメンタリー制作ノート~対象との関わりから学んだ大切なこと~
- Kazuki AGATSUMA

- 6 時間前
- 読了時間: 24分
僕も参加しているみやぎシネマクラドル(映像を通して繋がり支え合うコミュニティ)で、2024年度の企画として「ドキュメンタリー制作ノート」という有志による執筆企画(会のブログで公開)があった。ドキュメンタリーを制作中の人、これから制作しようと考えている人の参考のために、制作における一つ一つのプロセスについて、パートごとに1,000字で執筆したものである。
内容は以下の通り。
第1回:企画・テーマ設定
第2回:撮影交渉
第3回:撮影準備
第4回:撮影
第5回:編集
第6回:試写(対象への確認を含む)
第7回:発表(自主上映会・劇場公開を含む)
第8回:完成後の対象との関係
第9回:失敗談
第10回:フリーテーマ
小規模でも、これまでドキュメンタリーに携わる人が、実績や立場に関係なく各々の視点で自由に体系的に文章を執筆した企画はあまり見たことが無いので、ささやかではあるが意欲的な内容だったとは思う。
また、2025年4月に会の10周年を迎えるに当たり、2024年2月~2025年3月にかけて、「わたしにとってのドキュメンタリー」という会員によるリレー執筆の企画(こちらも会のブログで公開)も行った。これも、作り手だけでなくさまざまな立場の会員からのドキュメンタリーへの思いを1,000字で知ることができて、有意義なものだった。
僕自身、今回これら2つの企画に参加して、日頃自分が考えていたことを改めて整理する良い機会になった。執筆から大分時間が経っているが、せっかくなので、備忘録として以下に自分の書いた文章をまとめておきたい。
本当は加筆などしたかったのだが、慌ただしくてできなかったため、公開当時の文章に一切手を加えずにそのまま掲載することにする。まずは幹の部分をということで、枝葉の部分(より細かなエピソードや具体例)については別な機会に改めて整理したい。

■「わたしにとってのドキュメンタリー」
僕がドキュメンタリーという表現手法に魅力と可能性を感じるのには大きく二つの理由があります。
まず一つは、映像記録そのものの力です。
例えば、何気ない日常や非日常の出来事、変わりゆく風景やそこにあった思い、大切な人の表情や声―。映像には、そこに確かに存在していたかけがえのない時間や生の輝きを、そのときの温度のままに半永久的に記録し、観る人の心の奥深くにある感情に直接働きかける力があります。ドキュメンタリーにおいて、この映像が持つ本来の力は何よりも重要な要素です。
そしてもう一つは、現実世界の想像を超える複雑さと、現実に生きている人の圧倒的な存在感を可視化する力です。
僕は、ドキュメンタリーにおいて必ずしも社会批判的なテーマ性が最重要事項とは思っていません。ドキュメンタリーの定義を「事実の断片を作り手の意図によって再構成した映像」とするならば、それによって生み出される作品は実に多様です。
しかし、知られざる現実や人の葛藤など、普段あまり目を向けられることのないこの世界の繊細で複雑な側面を、ほかでもない作り手自身の身体を通じて可視化し、社会に問いかけることも、ドキュメンタリーの大きな役割です。そこに映り込む情報の豊かさは、劇映画ではとても再現できないものであり、それは昨今のAIでも生成できない独特の領域といえます。そしてここにドキュメンタリーの大きな可能性があります。
ただし、ドキュメンタリーの場合、自分の中に「撮りたい・描きたい・伝えたい」という強い動機があったとしても、それは撮影対象となる人の同意があってはじめて成り立つことです。ドキュメンタリーが事実そのものではなく、作り手の表現物=創作物=フィクションとはいっても、それは対象の意思も人生も、作り手の都合で好き勝手にできない厳然たるものであるという大事な前提があるからです。
そのため、すべて作り手の望み通りとはいかなくても、表現が互いにより良く生きるための方法として活用されることが、ドキュメンタリーにとっては大事なことなのです。
このように、ドキュメンタリーは僕自身がこの世界や人とどう関わり、何を思ったかの記録ともいえます。ときには「自分が受けた衝撃や感動の10分の1も描けていない」と思うこともあります。
その一方で、現実との対話から生まれる新たな何かが、思いもよらぬ奇跡や幸福を呼び起こすこともある。それが僕にとってのドキュメンタリーです。
2024年9月27日公開
■「ドキュメンタリー制作ノート」第1回:企画・テーマ設定
ドキュメンタリーの制作を始める場合、その動機もきっかけも人によってさまざまです。経験の豊富な人は、「こういうテーマでこういう作品を作ってほしい」という依頼を受けて、仕事として制作する場合もあると思います。
僕の場合、こうした仕事とは別に、自分自身の内なる動機に従って、何の後ろ盾も予算もない、いわゆる「自主制作」という形で制作を始めることが多かったです。そこには、自分自身が強く心を惹かれた人や土地との出会いがあり、そこから生まれた切実な問題意識や映像記録の欲求が、表現へと向かう大きな動機となっているように思います。
このような形で始まる作品制作は、僕にとって生活の一部のようなもので、往々にして長い時間を費やします。例えば、僕が大学卒業と同時に制作を始めた長編第一作に関しては、撮影に3年、編集に3年という時間を費やしました。当時はすべてが初めての経験ということもあり、自分の力不足を痛感することも多々ありましたが、そのおかげもあってか、今では制作に長い時間をかける覚悟も割と自然なものになっています。
もちろん、時間をかけたから良い作品ができるとは限りません。しかし、僕がドキュメンタリーで大事にしているのは、はじめに「これを伝えたい」という明確なテーマが自分の中にあったとしても、撮影対象となる人や現実と向き合う中で、企画時点での理解を何層も更新していくこと。そうして、自分の身体を通じてしか知覚できない、この世界の繊細で複雑な側面を丁寧に掘り下げていくことが、作品に豊かな厚みをもたらすとも言えます。
逆に言えば、ここにドキュメンタリーの可能性があるのです。自分の思い込みのままに、対象や現実を都合よくコントロールするのではなく、目の前の人や現実との対話から、当初の想定を超えた新たな問いや魅力を発見し、学んでいく。そこではあらゆる状況に柔軟に対応しつつ、目的を見失わないようにするためにも、日頃からさまざまなことに関心を持って勉強するなど自分を鍛える努力も必要でしょう。
もちろん、人と共同で何かを進める際には、制作意図や大まかなスケジュールを明確にし、プロセスの一つ一つに丁寧な合意を得て、しっかりとした成果に繋げることが大事です。しかしもし関係者の理解が得られるならば、上記のような姿勢で、時間をかけて物事を見つめ、企画時点では見えない、未知の世界を目指してみるのも良いかもしれません。
2024年4月2日公開
■「ドキュメンタリー制作ノート」第2回:撮影交渉
この世に存在しているドキュメンタリーのほとんどは、現実に生きている人の人生の一部をお借りして作られたものと言っても過言では無いと思います。
ここで大事なのは、丁寧な合意に基づく、制作者と撮影対象となる人の信頼関係です。
当たり前ですが、対象は誰かの表現のために都合よく存在しているわけではありません。制作者がその人に惹かれ、直感的に「撮りたい」「伝えたい」と思っても、対象には対象の人生があり、意思があり、制作者はそれを尊重した上で、物事を進めていかなければなりません。
もちろん、映画制作が対象の望む生き方を邪魔することなく、むしろそれを後押しするような良い影響を与えられればいいなとは思いますが、実際には、何かをお返しするどころか、逆にお世話になることばかりです。
つまり対象は、本来であれば何の義務もないのに、制作者の思いを温かく受け止め、理解を示し、無償で協力してくれる貴重な存在なのです。
そこでは、協力してくれる人の善意を裏切らないように、隠し事の無い、丁寧な説明が必要です。何故なら、ドキュメンタリーにおいて、制作者がやりたいことのリスク(別章で後述)をもっとも被る可能性があるのは対象だからです。
それを分かっていながら、必要な情報を故意に隠したり、対象の意向を無視したりするなど、制作者に都合良く物事を進めるとしたら、それは人の善意を利用した詐欺や搾取と同じことになってしまいます。
もちろん、何の実績もないうちは、自分に自信が無く、相手に胸の内をぶつけられないということもあると思います。相手が自分よりずっと人生経験のある魅力的な人だったり、自分とは全く異なる価値観で生きていたりする場合はなおさらです。
しかし自己開示しづらいというのは、そもそも人としての良好な関係が構築できていないことの表れでもあるので、そういう関係性の相手にカメラを向けたとしても、お互いに苦しくなってしまいます。それはのちのち大きなトラブルにも繋がります。
逆に、自己開示することで、対象の中にもモチベーション(その人なりの価値や魅力)が生まれ、映画という同じ目標、もしくはそれぞれに実現したいことに向かって積極的に手を取り合うパートナーにもなり得ます。
ですので、もし良好な関係が築けていると感じたら、まずは「この人とより親しくなりたい」という気持ちで、勇気を持って自分の本音を伝えてみる。すべてはそこからと思っています。
2024年5月1日公開
■「ドキュメンタリー制作ノート」第3回:撮影準備
自主制作のドキュメンタリーの場合、予算的な問題もあって、どうしてもあらゆる工程が監督のワンオペになりがちです。そこには良い側面もある一方で、映画制作そのものを貧相かつ不幸なものにしてしまう危険もあります。
これは、対象との間にもさまざまな形で起こり得ます。
基本的に、作り手は良くも悪くも「対象や物事をより深く見つめていきたい」という思いが強くあるため、撮影を進めていくうちにその思いが先走り、自分の勝手なイメージを対象に押し付けたり、自分の求める表現を実現しようとして、対象に負担をかけたりしてしまうことがあります。
こうした作り手の独善性(ときに邪な承認欲求を含む)は、真面目に取り組んでいてもしばしばトラブルの元になるものですが、対象との関係において、作り手が撮影のイニシアティブを取りやすい立場にある場合、この独善性が表面化しやすくなり、ときとして対象を追い詰めてしまう危険があるのです。
僕自身も、対象の本意でないことを進めようとして、齟齬や不信が生じてしまった経験はあります。対象が普段から交流のある人の場合、その都度疑問をぶつけてくれて軌道を修正できるかもしれませんが、対象によっては、複雑な思いを抱えながら表明しづらい場合もあるのです。
では、対象の安心・安全を守りつつ、作り手の意図を最大限実現できるような体制で撮影を進めるにはどうしたらよいのでしょうか。
作り手の人権意識向上や入念な擦り合わせ、丁寧なコミュニケーションはもちろんですが、そのための一つの方法として、僕は作り手にとっても対象にとっても信頼できる第三者に関わってもらい、状況を見守ってもらうことが有効と考えます。それは映画関係の人である必要はありません。双方の立場や考えを理解し、一緒に前に進む方法を考えてくれる人なら誰でもよいのです。
作り手と対象の一対一の関係だけでは行き詰まってしまうところに、そうしてチームとして一緒に歩んでくれる人がいるということは、双方にとって大きな安心と励みになります。
もちろん、このような頼れる人が常に身近にいるとは限りません。それでも、「分からないことや不安なことがあればいつでも言ってください」と、対象のペースを尊重する姿勢を示すことが重要です。
映画が対象の生活や人生を脅かすものではなく、ともにより良く生きるための方法として活用されるような環境作りに努めることが、僕は大事であると考えます。
2024年6月5日公開
■「ドキュメンタリー制作ノート」第4回:撮影
作り手と対象との関係性も距離感も、撮影に対するテンションも、人や作品によってさまざまです。
例えば、作り手と対象が、お互いに共通する「伝えられるべきこと」を形にするために思いを擦り合わせ、その目標に向かって協同関係を結ぶような場合もあれば、対象の中でとくに積極的に伝えたいことがなく、作り手の思いや作品のテーマに必ずしも全幅の理解がなくとも、大らかに撮影に協力してくれるという場合も往々にしてあります。
どのような状態がベストかというのは誰にも分かりません。何故なら、その変化の軌跡は作品によってすべて異なり、唯一無二だからです。
ここで大事なのは、なるべくテーマにこだわらず、同じ時間を過ごす中で、その人のあるがままを記録していくことです。撮影前に対象の人となりや生活を十分見つめたつもりでも、人は変化していくので、描くべきこともどんどん変わっていくかもしれません。
とはいえ、その人のすべてを描くことなど不可能です。そこではその人のどのような側面を取り上げ、社会に問いかけるのかという目標がなければ、撮影も散漫なものになってしまいます。
そこで、僕は大きく2つの軸に沿って撮影を進めていきます。
一つはテーマに沿った側面を掘り下げていくこと。もう一つはその人の豊かな面、すなわち日常を見つめていくこと。
これを長い時間をかけて追いかけていく中で、断片的だった素材が線と線で結び付き、やがてさまざまな線が交差し合い、立体化していきます。
そして面と面が響き合い、ある時期を過ぎると、描くべきものの輪郭がぼんやりと浮かび上がってきます。不思議なもので、作り手には何となく直感で、「これはちゃんと映画になる」と思える瞬間が来るのです。
ここまで来ると、編集を進めながら、作品のテーマをより深めるための明確な意図に沿った撮影も可能になってきます。
そしてもう一つ、撮影で大事なのは、最初の同意がすべての同意ではないということです。
当然ながら、対象だからといって、誰もが何でも曝け出せる用意ができているわけではありません。人によっては「自分が映ることで誰かの役に立てるなら」という使命感から、少し無理をして撮影を引き受けてくれる場合もあります。そこでは、その人が映画の中で見せる顔を選ぶ自由も必要になってきます。
相手に大きな負担をかけてまでリアリティを追求するのは暴力である。撮影では、これを常に心がけるのが大事と思っています。
2024年7月18日公開
■「ドキュメンタリー制作ノート」第5回:編集
ドキュメンタリー制作において、僕は編集がもっともクリエイティブで重要なプロセスと考えています。
まず、素材を見ていく上で、大きく3つの視点を大事にしています。一つ目は「撮影を進める中で浮かび上がってきた『描くべきもの』を具現化するには何が必要か」という視点。二つ目は「物語がどこから始まりどこへ向かって行くのか」という視点。そして三つ目は「虚心坦懐にそこに映っているものの情報や魅力を新たに発見していく」という視点です。
次に、この3つの視点を念頭に置いて、素材を「絶対に使いたい魅力的な映像」「重要な意味体系を持つ映像」「使わないかもしれない映像」の3種類に分類し、物語を構築していきます。
編集で心掛けているのは、それ自体が大きな力を持つ魅力的な映像をどう生かしていくかということです。例えば、一見すると物語の本筋とは関係ないような映像であっても、対象の人となりや生命の感触、その場の空気感を伝える映像というのは映画としての魅力を劇的に向上します。
また、ときにはナレーションや字幕で補足したり、音楽で演出したりする必要も出てくるかもしれませんが、作り手の「こう感じてほしい」「こう理解してほしい」という思いが強過ぎると観る人が窮屈に感じてしまうため、映像から自由に感じ取る余白を意識することも重要になってきます。
そうして長い時間をかけて試行錯誤を繰り返し、登場人物たちが自分の思惑を離れて映画の時間を活き活きと生きていると感じられるようになったとき、編集が楽しくて仕方がないという、いわゆる「ゾーン状態」に突入します。この時期に来ると、信頼できる人にラフカットを観てもらい、その意見を反映させるなど、作品の完成度を高めるための協力も得られるようになっていきます。
編集は、素材を見返すだけでも物理的に膨大な時間を要しますし、現実に変化し進んでいく時間がある一方で、自分の時間を止めて過ぎた時間に向き合い続けるという、精神的にも辛く苦しい作業です。
そのときに支えになるのは、「お世話になった対象や関係者のためにも、堂々と胸を張って世の中に発表できる作品をつくる」という気持ちだと思っています。
また、撮影終了時から時間が経ち、作り手・対象・社会が変化することで素材の持つ意味が変化することもあります。
そのため、すぐには完成させられなくても、作品が生まれ落ちる然るべきタイミングがあるという理解も必要になってきます。
2024年8月18日
■「ドキュメンタリー制作ノート」第6回:試写(対象への確認を含む)
ドキュメンタリーにおいて、編集した作品を撮影対象に確認してもらい、発表の同意を得るプロセスは絶対に欠かせません(制作の途中で対象が亡くなってしまった場合には、ご家族など身近な人の同意を得ることが必要になります)。
何故なら、ドキュメンタリーが事実そのものではなく、作り手の創意工夫に満ち溢れた創作物=フィクションだとしても、そこに映っているのはまごうことなきその人であり、作り手が勝手にやりたいことのリスクをもっとも引き受ける可能性があるのは対象だからです。
このリスクについて、「人を描く行為そのものの問題」と「対象の実生活への影響」という2つの側面から考えてみます。
まず、当然ながら、作り手が描きたい(伝えたい)対象のイメージと、対象の思うそれが常に合致するとは限りません。そこでは作り手がどれだけ誠心誠意対象と向き合っていても、描かれる当の本人との間には必ずズレが生じます。
例えば、作り手が解釈した対象の姿や意図を持って構成したストーリーに、当の本人は「違う、そうじゃない」と違和感を覚えるかもしれません。また、作り手にとっては重要なシーンが、対象にとっては実生活を揺るがす脅威になるかもしれません。
このように、描く側が描かれる側の事情や繊細で複雑な思いのすべてを想像するのには限界があります。そしてもし対象の思いを置き去りにして、単なる素材として利用したならば、それは不本意なイメージを対象に押し付け、言葉を奪い、大義の元に搾取し苦しめるゆゆしき事態となってしまうでしょう。
だからこそ、作り手は対象の思いを受け止め、あらゆるリスクを想定し、発表前にきちんと対処する必要があるのです。
ここで重要なのは、作り手と対象が互いのズレを認識した上で、対話によって新たな学びや創造性に繋げていくことです。もしかしたら、互いに意図を伝え合うことで、対象は自分では気づかなかった自身の映像の魅力に気づくこともあるかもしれませんし、作り手も単なる妥協ではない、作品をより良くするための方法を見つけることもあるかもしれません。そして、そこに信頼できる第三者の客観的な視点が加わることで、議論が円滑に進む場合も往々にしてあります。
そうして「フィクションだけど本当のこと」と信じられる物語を作り手と対象が互いの納得の上で共有し、対象が自らのイメージを肯定できる状態になってこそ、はじめて作品を世に発表することができるのです。
2024年9月12日公開
■「ドキュメンタリー制作ノート」第7回:発表(自主上映会・劇場公開を含む)
前回は、対象に編集した映像を確認してもらい、対象自らが気持ちを整理することの重要性について書きました。
対象は、自分が映った映像を「映画」として観ることで、それが社会に対して何かしらの意義を持つものになることを自覚します。つまり自分の姿が不特定多数の他者に開かれることを改めて意識するのです。
そこでは当然さまざまな不安もありますが、気持ちを整理することで対象が自らの言葉で作品について語れるようになり、「何を言われても、どう見られても大丈夫」という覚悟のようなものが定まっていきます。作品は一度発表したら作り手や対象の意図を超えてさまざまな受け止められ方がされるため、そのための心の準備が必要不可欠なのです。
また、最後の撮影から時間が空いている場合、試写をした上で、最後に対象の現在の姿を追加撮影するなど、作品のテーマをより深めるための撮影も可能になります。この段階になると、対象は作り手の意図をしっかり理解してくれているため、より良い作品にできるよう、積極的に協力してくれる場合もあります。
こうして対象との間にある種の共同関係を築き、やれることをすべて尽くした上で、いよいよ作品を発表する段階となるのです。
ドキュメンタリーは終始対象にお世話になりっぱなしです。通常の撮影では対象にお金を支払うことはないので、対象は、作り手がやりたいことに無償で付き合ってくれるいわばボランティアのようなものです。作品の発表も、それは社会に何かを問いかけ、何かを還元することが目的であって、対象には直接的には利益が無いことです。
とはいえ、作品を観てくれた人が対象に好意的な言葉を投げかけたり、新たな縁が生まれたりなど、それによって対象の人生に何かプラスになるものがあれば、作り手にとってこんなに嬉しいことはありません。その意味では、作品の発表というのは対象に対する恩返しでもあるのです。
一方で、対象の同意がどうしても得られない場合もあります。ドキュメンタリーは制作に長い時間を要するため、対象の社会的立場や生活環境、考え方の変化などによって、撮影開始時点での合意が変わってしまう場合もあります。
そのときは、対象の気持ちを第一に考え、発表を諦めるしかありません。「伝えることの大切さ」や「知ることの大切さ」のために誰かの尊厳(意思や権利)を蔑ろにしてはいけないということを、作り手は肝に銘じておかなければならないと考えます。
2024年10月25日公開
■「ドキュメンタリー制作ノート」第8回:完成後の対象との関係
映画を完成させて人に観てもらうことは、作り手にとって何よりの喜びです。僕自身、第1作の上映活動に奔走していたときには、それまで止まっていた時間が一気に動き出し、孤独と感じていたのが一転して多くの人に支えられ、「自分は一人ではない」と思えるようになりました。
そして映画を完成させることで、撮影対象となった人からも「ああ、我妻はこういうことがやりたかったんだな」とようやく意図を理解してもらえ、それまでの関係が変わって本音を語り合える関係に発展することもありました。その意味では、映画を完成させることではじめて深まる信頼関係もあるのです。
同時に、映画の完成後も対象となった人の人生は続いていくので、作り手には、映画上映とともにできるだけその人の現在を伝えていくことも必要になってきます。そのときに、上映後のトークで「今は対象との関係が切れてしまった」と言ったら、観客はきっとがっかりして「この映画を肯定して良いのだろうか」という気持ちになってしまうでしょう。
とくに自主制作のドキュメンタリーの場合、作品は監督の人間性そのものでもあるので、もし対象との関係が悪くなったときに、現実に存在するその人の人生と作品を切り離して、作品だけ上映し続けられるかというと、僕自身は抵抗があります。そのためにというわけではないですが、対象との良好な関係を続けるということは、上映の同意を自然と更新し続けることでもあるのです。
もちろん、撮影対象となった人全員が常に親密な関係を望むかというとそうではないと思います。それでも、作り手が対象の意思や気持ちに配慮を続けるのはとても大事なことです。
例えば、通常の上映会は大丈夫でも、DVD化やオンライン配信となると抵抗がある人もいるかもしれないので、その都度対象に確認が必要になります。また、映画を観てくれた人からすると、監督はあたかも対象の一番の理解者であるかのように思われることもあるので、対象の気持ちを勝手に代弁することがないよう、慎重に言葉を発していく責任もあります。
このように、ドキュメンタリーの作り手には、その人生を通して対象の権利と尊厳を守る義務があるのです。
なお、最近では撮影や公開に当たって同意書を取り交わす作り手も増えていると思いますが、同意書を作成するに当たっては、作り手の都合を優先するのではなく、対象が安心できるような内容を心掛けて作成するのが良いと思っています。
2024年11月24日公開
■「ドキュメンタリー制作ノート」第9回:失敗談
僕はこれまでの制作の中で、自身の至らなさから対象からの信用を失ってしまい、映像使用の同意が得られなくなった経験がいくつかあります。その結果、完成した作品を封印することになったケースもあります。
ドキュメンタリーの場合、対象側の事情もさまざまあるので、同意が得られなくなる要因のすべてが作り手側にあるとは限りませんが、自身の失敗を振り返ると、自分に都合よく物事を進めようとして丁寧なコミュニケーションを欠いてしまったこと、また対象の気持ちをしっかり受け止められなかったことが大きいのかなと思っています。
このような独善に陥ってしまう大きな要因の一つとして、僕の中に対象の意向を無視してでも自分が求める表現を実現したいというエゴが存在しているからと分析します。つまり「自分がやっていることは"社会的意義"があるのだから、対象はそれに協力すべきである」という非常に傲慢な態度がときとして顔を出すのです。
このような態度は、どんな作り手にも大なり小なり身に覚えがあるはずで、完全に無縁な人などいないのではないでしょうか。もちろん、通常は対象への敬意(あるいは畏怖や怯え)と倫理観によってこれを抑制しているわけですが、作り手側がある一定の条件を満たした場合(例えば権力で上位にある、イニシアティブを取りやすい関係にある、自己愛が強い、焦って冷静な判断ができない等)、これが上手く抑制できなくなり、対象の権利を侵害してしまう危険があるのです。
しかしこれまで繰り返し強調してきたように、ドキュメンタリーは対象との間に丁寧な合意があってはじめて成り立つ表現です。それを無視して推し進められることは暴力であり、表向きにはどれだけ立派なことを言ったところで何の意味も持たなくなります。そもそも対象の意思よりも自分のエゴが優先されてしまうとしたら、それは相手のことも描こうとしている問題のことも、本当の意味で考えようとしているとは言えないのではないでしょうか。
そんなとき、僕は何のために映画を作るのかという根本的な問いに立ち返ります。目の前の人の幸せや社会がより良くなることを願って映画を作るのか、それとも自分の承認欲求や自己実現など、自己都合のために人を利用するのか。
もちろん、対象からの信用を失うような失敗は本来あってはならないことです。しかしそこから先の選択で新たな失敗を重ねず、対象の尊厳と人生を守ることも大事なのです。
2024年12月24日公開
■「ドキュメンタリー制作ノート」第10回:フリーテーマ
僕はこれまでの連載の中で、テクニカルな面よりも作り手の倫理的な面を重視して文章を書いてきました。どんな映像論も作家論も、撮影対象への敬意(人権や尊厳を守ること)なくしては成り立たないため、いついかなるときもそれを忘れないでいたいと思うからです。
それだけ、人を記録し表現するということは、対象の人格と密接に関わるデリケートな行為であり、それが対象の生活や人生を脅かすようなことがあってはならないということを、描く側の人間は常に念頭に置く必要があると僕は考えています。
とくに、僕を含めて、作り手はよく「覚悟を持って」「葛藤して」等自分の努力ばかりを強調しがちですが、実際のところ、描かれる側の人からすればそんなことは二の次で、自分の意思をちゃんと尊重してもらえるかどうかが何より重要なのではないでしょうか。だからこそ、これまで書いてきたように、プロセスの一つ一つに丁寧な合意が必要になるのだと思います。
こうした描く側の特権性や加害性を意識した上で、表現が対象から奪う暴力として機能するのではなく、互いにより良く生きるための方法として活用されることが、関わる人たちの人生(あるいは対象となる地域の未来)にも何かプラスのものをもたらすのではないかと僕は考えます。それは決して、作り手が最初から折れて対象に迎合しろという話ではありません。自分なりの主張やまなざしを持ち、ときにせめぎ合いながら、現実と対話する姿勢が必要ということです。
そして、僕自身はこのような「対象とともに生きることの延長上に、学び、変化しながら生まれる表現」にこそ、ドキュメンタリーの強みと可能性があると信じて、これまで映画を作ってきました。
正直、僕自身、ドキュメンタリーを作り続けることは限界と感じることもたくさんあります。それでも続けたいと思うのは、対象との間に紡がれる唯一無二の物語が、「この世にたしかに存在したほんとうのこと」として、多くの人と分かち合える記憶(歴史)となっていくことに、奇跡的なものを感じるからなのかなと思います。
同時に、ドキュメンタリーがとても難しい表現だからこそ、同じように悩みながら、止むに止まれぬ気持ちで普段見過ごされている世界や人の生き方と真摯に向き合っている作り手がいることを知ると、とても励みになります。
そのようなまだ見ぬ作り手と、今回の連載を通して何か通じ合えるものがあったなら、僕は嬉しいです。
2025年2月15日公開






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