top of page
検索
執筆者の写真Kazuki AGATSUMA

ある原稿~人を記録し、表現するということ③~

僕はありがたいことに、ときどき大学の授業などで講演をさせていただくことがある。これまでの映画制作のプロセスを軸に、そこから学んだこと、とくに描く側の倫理と描かれる側の人権についてのお話をさせていただく。


以下、それと関連して、ある学会で講演した際のレポートで書いた原稿(1600字程度という指定があったため、それに少しだけ加筆修正)を掲載しておく。



**********



人や地域を記録し、表現するということ―現実との対話をめぐって―


我妻和樹


 本発表では、自身が宮城県南三陸町を舞台に製作した3つの長編ドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』(2014)、『願いと揺らぎ』(2017)、『千古里の空とマドレーヌ』(2021)の製作プロセスを軸に、ドキュメンタリー映画の立場から、人や地域を記録し、表現するという行為をめぐる被写体との向き合い方、そして描く側の倫理と描かれる側の人権についての考察を進めた。

 はじめに、“ドキュメンタリー”という言葉の定義についてであるが、本発表では「映像によって記録された現実(事実)の断片を素材とし、それを作り手の意図を込めて再構成する表現手法、またはそれによって作られた作品」としている。

 このドキュメンタリーが描く対象は人や地域に限らずさまざまだが、往々にして、現実の出来事や現実に生きている人との相互的な関わりの中で、物事を知覚・分析し、世界への理解を更新していくという、作り手自身の個別具体的な経験がベースとなる。その理解は撮影、編集、さらには作品の発表以後も含めてあらゆる過程で更新され、作り手自身の、「私は世界をこう見た、そしてこう思う」というある種のメッセージを帯びた作品となる。

 その意味では、ドキュメンタリーが映すのは事実の一側面ではあるけれども、事実そのものではなく、作り手の表現物=創作物=フィクションと言うことができる。そして「全てを描くことは原理的に不可能である」という前提のもとに、このフィクション的な構造から立ち上がる物語によって、現実の社会に何かしらの問いを立て、何かしらの影響を与えていくことが、いかに事実に近付くか、事実をなぞらえるかよりも重要であるといえよう。

 しかしここで注意したいのは、フィクションだから何でも許されるかというと当然そうではなく、事実も人の人生も、作り手の都合で好き勝手に出来ない厳然たるものであるという大事な前提があるからこそ、ドキュメンタリーは説得力のある表現として成り立っているということである。その前提を無視した信用ならない表現というのは、単なる嘘や暴力になってしまう。

 そこでは、目の前の現実から真摯に学ぶ姿勢もさることながら、被写体の将来的なことも見据えて、想定されるあらゆるリスクからいかに被写体を守り、被写体が納得できる状態で作品を発表するかということにも心を砕くことが必要不可欠となってくる。

 とくに映像の場合、そこに映っているのはまごうことなきその人自身なわけだから、作品で描かれるその人のイメージと当の本人の間には必ずズレが生じる。そのズレを被写体が受け止め、そこに何かしらの価値を持ち、自らの言葉で語れる状態でなければ、作品を上映すること自体がのちのち被写体を苦しめてしまうことにもなる。

 さらにドキュメンタリーは製作に長い時間を要するため、被写体の社会的立場や生活環境、また考え方などの変化から、撮影開始時点での合意から気持ちが変わってしまうことも十分にあり得る。ときには完成した作品を根本から再検討せざるを得ないこともあれば、被写体の同意が得られず諦めざるを得ないこともある。そのときにどう対処すべきなのかは、多くの作り手にとって切実な課題であろう。

 誰しもが大事なものを守って生きており、作り手の表現や社会的意義のために存在しているわけではない。当然ながら、被写体が望まないことを強要するのは暴力であり、「伝えることの大切さ」や「知ることの大切さ」のために尊厳を蔑ろにされて良い人などいない。作り手はよく「覚悟を持って」とか「葛藤して」とか自分の努力ばかりを強調したがるが、一番大事にすべきは被写体であり、表現が人の人生や権利を脅かすようなことがあってはならないということを、描く側の人間は常に念頭に置く必要があると僕は考える。

 そして、こうした描く側の特権性や加害性を意識した上で、表現が関わる人を不幸にするものではなく、互いにより良く生きるための方法として活用されることが、対象となる人の人生や地域の未来にとって豊かなものをもたらすのではないかと僕は考える。それは決して作り手が最初から折れて被写体に迎合しろという話では無く、自分の主張を持ちながら、現実と対話する姿勢が必要ということである。

 このように、作り手の独善ではなく、被写体とともに生きることの延長上で、学び、悩み、変化しながら生まれる表現こそが、本当の意味での信頼関係に支えられた表現なのではないかと僕は考える。そして、僕自身はここにドキュメンタリーの強みと可能性があると信じて、これまで映画を作ってきた。



<関連記事>


■人を記録し、表現するということ➀


■人を記録し、表現するということ②


コメント


コメント機能がオフになっています。
bottom of page