<目次>
1.はじめに~映画業界における性暴力とハラスメント~
2.作り手の傲慢と潜在的なハラスメント
3.作り手のエゴが侵害する被写体の権利
4.作り手の適性と健全な映画のあり方
5.搾取やハラスメントを自覚・防止するために
6.表現よりも大切なこと
7.ともにより良く生きるための方途としての映画
8.おわりに
1.はじめに~映画業界における性暴力とハラスメント~
このところ映画業界における性暴力やハラスメントの実態が明るみになってきている。
ドキュメンタリーの作り手である僕としては、5年前に明るみになった松江哲明監督による出演者への撮影中の性行為の強要が記憶に新しい。そして数ヵ月前には、榊英雄監督の映画に関わった女優たちが同氏から受けた性暴力について相次いで告発し、波紋が広がった。その後、日本の映画人を代表する一人でもある河瀨直美監督によるスタッフへの暴行や出演者へのパワハラも発覚し、こうした行為を土台に作られた映画というコンテンツそのものへの信頼も揺らいでいる。
これらの行為は、いずれも人の権利を侵害し、尊厳を大きく傷付ける行為と言える。自身の表現欲のために人を利用し、作品のために搾取する。監督という立場や映画を利用して人の弱みに付け込み、自身の欲求を満たす。人を力ずくでコントロールし、思い通りにいかなければ暴力で支配する。いずれも明らかな暴力だが、公になっていないものやグレーゾーンのものも含めると、同様のことは業界内でたくさん起きているのだろう。
では、これが一部の特別な人たちの行為で、僕自身に全く関係がない話かというと、実はそうとは言えない。何故ならば、僕自身の中にも、他者の権利を無視してでも自分の表現欲を押し通したいというエゴは間違いなく存在するからである。
もちろん、自分の表現が他者に害を及ぼさないよう、普段はこうしたエゴと折り合いを付けながら作品を製作しているわけだが、逆に言えば折り合いを付けなければならないほど、僕にとっての表現欲とは非常に強いものであり、それによって「伝えられるべきもの」こそ、僕の中で「何ものにも勝る尊いものである」と信じたくなる瞬間があるのは紛れもない事実なのだ。
そして何より、過去には自分の根本にあるその非常に傲慢で自己中心的なエゴが引き金となって、気を付けているつもりでも、自己都合を優先してしまい、被写体に対して精神的な負担をかけてしまうことも実際にあった。被写体のことも被写体が置かれている状況を伝えることも自分にとってとても大事なことであると思うあまり、被写体が許容できる範囲を超えて、相手に多くのことを一方的に求め過ぎたのである。
つまり、自分に悪意が無く、いかに「そんなつもりはなかった」としても(本人の中では暴力なんて一切するつもりもなければやりたくもないと心から思っていたとしても)、一般的なハラスメントの定義(本人の自覚の有無に関わらず、相手に不快感や脅威を与え、尊厳を傷付ける行為)に基づくならば、僕自身ハラスメントに該当することをしてきたのではないかということを疑わざるを得ない立場でもあるのだ。
そのような経験から、自身の未熟さを痛感するとともに、ともすれば情緒的な言葉(例えば「寄り添う」とか「誠実さ」といったような)を持ち出して自分に都合よく思考しがちだった作り手と被写体との関係性について、その具体的な中身の一つ一つを人権的な観点から捉え直すことを強く意識するようになっていった。
以下、本文章ではそうした観点に立ちつつ、僕自身の中にある傲慢かつ暴力的な側面を認めた上で、人を記録し、表現するという行為が孕む問題と、その健全なあり方を模索するにはどうしたらよいのかについて、作り手のエゴとハラスメントを軸に改めて考えてみたい。
なお、僕の場合はドキュメンタリーを個人で製作していることから、基本的に製作過程のすべてのパートを自分が担い、撮影対象とも自分一人で関わることが多い。もしかしたらハラスメントの起こりやすい状況が生み出される一つの要因として、こうした閉じられた製作環境も挙げられるのではと思い、本文章ではそのあたりのことについても言及している。同じような課題を抱えている個人製作者にとって少しでも参考になればと思う。
■関連記事➀「人を記録し、表現するということ➀」
2.作り手の傲慢と潜在的なハラスメント
実際、どんな作り手の中にも、被写体に対するハラスメント的で傲慢な態度というのは発生し得ると僕は思っている。自分の求める表現を実現するために他者をコントロールしたいとか、自分の表現を世に問うために、自分に都合のいい方向に物事を進めたいとか、そうした欲求は多かれ少なかれどんな作り手にもあるだろう。
こうしたことは、作り手が被写体に対して畏怖や怯えを感じている場合は表面化しづらいし、周りも本人も気付きにくい。しかし僕自身は、過去に自分の家族や映画製作の仲間、そして自分の活動を応援してくれている人といったごく近しい人を撮影した経験から、改めて自分の中のそうした部分に気が付いた。
身近な人を撮影していると、つい相手に甘えてしまうときがある。「伝えることは大事なことだから、あなたはそれに協力すべきだ」とか、「これはあなたをちゃんと描くために必要なことのはずだ」とか、「自分はこんなに価値を感じているのに、どうしてあなたにはそれが分からないのか」といった具合に、自分の感覚を相手が丸ごと受け入れてくれることを一方的に期待して、自分にとっての「べき」を押し付けてしまうのである。
また僕自身、相手が自分のことをよく分かってくれているという安心感から、「どうして撮影させてくれないのか」とか、「もっと理解してくれてもいいじゃないか」といった具合に、思い通りにいかないことを相手のせいにして、幼稚で身勝手な態度を取ることもあった。
しかし本来であれば、相手が誰であろうと作り手にそのような甘えは許されない。何故ならば、多くの場合撮りたいのは作り手の勝手であり、どんな人も映画の素材となるために生きているわけではないからである。
この当たり前のことが、作り手が撮影のイニシアティブをある程度取れる関係にあるとつい蔑ろになってしまうというのが、僕自身の撮影経験から感じたことである。自分の「やりたいこと」(それを社会から求められている「やるべきこと」と勝手に思い込んでいる場合が多いのだが)に固執するあまり、相手に対する敬意や謙虚な姿勢が失われ、「あなたの意思なんてどうでもいいから、とにかく自分の言うことを聞いてくれ」とでも言わんばかりに、目の前の人を尊重するよりも自分のエゴを通したい気持ちが優先されてしまうのである。
ちなみに僕が宮城県南三陸町の漁村「波伝谷(はでんや)」で撮影していた20代前半の頃は、骨太な漁師たちを相手に、自分の思い通りにコントロールしようなどと考える余裕は無かった(もちろん、全く無かったわけではなく、のちのちそうした欲も出てきたのだが)。それが関係の近さに比例してそうしたエゴが前面に出てしまうのは、自分は相手よりも立場的に優位であるとの感覚から、無意識に「この人は尊重しなくても許される相手である」という、完全に誤った認識に基づく線引きをしてしまっているからなのだろう(これは後述する差別の問題とも関わってくる)。それはひとえに自分の人間としての未熟さから来るものと思っている。
そしてこの自分のエゴと相手への敬意のバランスが大きく崩れることが、ハラスメントが発生する一つの要因になると僕は考える。
僕の場合、大切な人を悲しませたくないという思いから、最終的に相手に対して高圧的な態度を取ったり物事を強引に進めたり何かを強要したりすることはなかったと信じたいが、そのエゴを制御できずに相手を追い詰めてしまっていたとしたら、それは十分にハラスメントと言えるだろう。その意味で、僕自身はこれまでハラスメントと無縁だったかというと、そんなことは決して言えないのである。
だからこそ、自分の経験から感じたことを、この機会に整理しておきたいと思った。
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【参考】
具体的な話に進む前に、ドキュメンタリーの撮影における作り手と被写体との合意形成のパターンについて触れておきたい。
個人的な経験からであるが、これには大きく2つのパターンがあると思っている。一つは「協同型」で、もう一つは「協力型」である。
まず協同型であるが、例えば、作り手が「伝えたい」と思っていることがあり、被写体にも「伝えてほしい」と思っていることがあるとして、お互いに共通する「伝えられるべきこと」を形にするために思いを擦り合わせ、その目標に向かって協同関係を結ぶというパターンである。
このパターンでは、被写体は何かの活動をしている人など、本人の中でも撮影を引き受ける動機が明確な場合が多く、作品の主人公として取り上げられやすい。また、ときに演出なども交えながら必要なことが過不足なく伝えられ、お互いにwin-winになることも多い。こうしたパターンはテレビドキュメンタリーやニュースの報道でもよく見られると思う。
次に協力型であるが、作り手の強い思いや被写体自身にとっても大事と思われるテーマに対して、被写体が撮影対象になることで作品作りに協力するというパターンである。
このパターンでは、被写体の中ではとくに積極的に伝えたいことがなくても撮影に協力してくれるということが往々にしてあるので、ある意味では協同型以上に無償のボランティアとなる側面が大きい。
もちろん、実際の撮影現場では、このどちらかのパターンでくっきりと分かれているというわけではなく、複合的であったり他のパターンがあったりもする。
また時間経過の中でお互いの認識や関係性に変化が現れ、思いの食い違いが生じたり、ときとして摩擦が生じることもあるだろう。人と人は完全に分かり合うことなどできないのだから、そうした違いは当然のことでもある。その違いを受け止め、時間をかけて被写体との信頼関係を築き、当初想定していた以上の深みに辿り着けるのがドキュメンタリーの醍醐味でもある。
そこでは作り手が自身の思い込みや自己都合から離れ、いかに目の前の人や現実と真摯に向き合うかが重要になってくる。しかし目の前の人や現実から学ぶことを放棄し、あくまで自らのエゴにこだわるとしたら、それは歪な結果をもたらすことになる。
次章以降、そのことについて考えていきたい。
3.作り手のエゴが侵害する被写体の権利
まず初めに確認しておきたいのが、大前提として、作り手の抱く「かくあるべき」という信念を、それが被写体の意に沿わないものであるにもかかわらず一方的に相手に押し付け、被写体の意思を尊重しないままに撮影を強行しようとするのは、それがどれだけ「相手のことを考えて」の行為だとしても、一つの暴力であり権利侵害であるということである。
そもそも作り手と被写体は異なる背景を持つ別の人格であり、価値観の受容体も異なるのだから、同じものを同じように感じているとは限らない。にもかかわらず、作り手が自分の映画製作にかける熱量と同等のものを当然被写体も持ってくれているはずだと思い込んでしまうのは、非常に危険なことでもある。
とくに、作り手はよく「覚悟を持って」とか「葛藤して」とか自分の努力(それも当然過ぎるほど基本的な努力)ばかりを強調し、目の前の被写体を置き去りにしてしまうことが往々にしてあるが、作り手にとって「さまざまなリスクを引き受けてでも世に問うべき」と感じられるような大事なことであっても、それを被写体が同じように感じているかと言えば、決してそうとは限らないのである。
例えば、映像に映るのが絶対に嫌という人がいたとして、自分は過去にそうした方を突発的に撮影してトラブルになってしまったことがあるのだが、その人に対して「あなたはおかしい」とか、「どうして協力してくれないのだ」などと責めることは絶対にできない。相手が誰であってもその「撮影されたくない」という意思は尊重されなければならないし(中にはその権利を映画の妨害目的でいたずらに行使する人もいるのかもしれないが)、本来の筋道から言えば、撮影前後にしっかり意図を伝えて相手の意向を確認するなど、丁寧な合意形成のプロセスが必要になってくる。
このプロセスは、自分と相手は別人格だからこそ、相手の権利を侵害しないためにも絶対に必要なことであり、それはどれだけ身近な人が相手だったとしても、絶対に欠いてはいけないものである。最終的に、作り手がやりたいことのリスク(このリスクについては先述の「人を記録し、表現するということ➀」を参照してほしい)を一番引き受けることになるのは被写体であることを考えれば、これは当然の配慮と言えよう。
僕の場合、ある撮影では、被写体の人生に対して「映画を作ることで力になりたい」という真っ直ぐな思いが先走り過ぎて、撮影を進めるにつれて相手の気持ちを置き去りにしてしまうということがあった。もちろん、はじめのうちはそこに相手の合意もあったのだが、次第に「相手もきっと分かってくれるだろう」と思い込み(随分と自分本位の誤った認識なのだが)、撮影ごとに必要な合意更新を簡略化してしまったのである。
その度に、自分の中では「あなたのためを思って」「大事なことだから」と都合の良い言葉(それは結局のところ「僕のために大事なこと」なのであるが)を並べ立てていたのだが、こうした善意の押し付けも、一つの暴力であり権利侵害であるということを忘れてはならない。(これと似たような構図のことは、僕が長年関わってきた災害ボランティアや介護支援の現場でも度々起こり得るものだと思う。)
また、人はあくまで相手の一面しか見ることはできず、全てを分かることはできない。その前提に立てば、作り手の想像に基づいて自分の気持ちを都合のいいように推し量られるというのは、被写体からしてみれば恐怖でしかないだろう。「きっとこう思っているに違いない」というような、自分は何でも分かっているかのような態度を作り手が取るのもそうだし、被写体がいろいろな理由から思ったことに対して、「普通ならそう思うはずがない」とか、「今のあなたは気付いていないだけで、そう捉えるのはあなたの考えが足りないからだ」といった具合に、作り手の尺度で評価を下すのも同じことである。
ドキュメンタリーはただでさえ良くも悪くも描かれる側の人のイメージを作ってしまうのだから、それを描く側の特権に自覚的でないような発言をする人間に、被写体がどうして自分の撮影や映像を委ねようなどと思えるだろうか。いかに身近な人が相手とはいえ、そうした破綻した距離感から生まれるのは信頼どころか不信である。この「人を描く」という行為(ドキュメンタリーに限らず)が、非常にセンシティブで、場合によっては描かれる側の人の人生を脅かす危険性があるということは、自身のこれまでの経験から痛感したことでもある。
また数年前の自分は、被写体の日常であるとか、露になった感情であるとか、無防備な「ありのまま」を撮りたいという欲求が強い人間だった。そしてそのような「リアリティ」のある映像が撮れるということ、それが撮れるだけの関係性にあるということが「すごい」ことなのだと信じこみ、それを実践できる「すごい」作り手になりたいということを無邪気に考えるタイプの人間だったのである。
しかしそのことが目的化してしまうと、映画作りの根本が歪められるだけでなく、撮影対象を追い詰めてしまいかねない。本来であれば何のために映画を作るのか、その目的に向かって細やかな配慮をしながら撮影を進めなければならないところが、「繊細で複雑な人間を描く」とか、「そのことによって称賛される」といった具合に、自分が満足することに目的がすり替わってしまうのである。その結果、被写体に対する敬意や謙虚な姿勢が失われ、相手の人格を軽視し、自己都合のために利用するといった忌避すべき行為へと陥ってしまうのである。
作り手の自己実現や承認欲求のために、被写体が手段として利用されるのであればそれは論外である。そもそも作品によって伝えられるべき「大義」が仮にあったとしても、そのために被写体はさまざまなリスクを負わなければならなくなるのに、作り手の商売(極論すればそういうことになる)や自己満足のために、何故被写体が自身のプライバシーを世に晒し、人生の大切な時間を捧げてまでボランティアで映画作りに協力しなければならないのか。
被写体に自分の全てを曝け出す覚悟があり、何より被写体自身がそのことを望んでいて、作り手の中にもそれを引き受けるだけの強い意志があるといった具合に、当事者間の揺るぎない共通の目的意識や強固な関係性があるのであれば話は別だが、そういうことはそれが受け入れられる人同士ですればよいことであって(ただし当人同士の思惑が合致していても社会通念上許されないこともあるが)、当然ながら、作り手が被写体に一方的に求めたり、強要したりするようなことは決してあってはならない。自分の人生を大切に生きている人のささやかな日常を映画が脅かしてはいけないのである。
にもかかわらず、自分にとっての「べき」を押し付け、被写体に負担を強いることは、表現の名を騙った暴力になる。その暴力性は、作品に「大義」があろうとなかろうと本質的には変わりない。何度も繰り返すが、作品にどれだけ崇高な社会的意義があったとしても、そのために蔑ろにされて良い人格などないし、あくまで撮りたいのは作り手の勝手であって、どんな人も誰かの表現や映画のために生きているわけではないからである。
そこでは被写体が映画のために出せる顔を選ぶ自由も必要になってくる。人によっては、被写体になることを積極的には望まないけれど、作品が扱うテーマについて、「自分が映ることで何かの役に立つのなら」と限定的に協力してくれる場合もある。繊細で複雑な事情を抱えながら、葛藤の中で撮影に何かしらの希望を見出して協力してくれる人もいるのだ。それで言うと、そもそも撮らせてもらえるというだけで、それは被写体からの作り手に対するものすごく大きな協力なのだ。
4.作り手の適性と健全な映画のあり方
このような経験談を書いていると、自分の作品製作はよっぽど「グレー~黒」なことをしてきたのかと思われるかもしれない。しかし一応断わっておくと、自分は相手が被写体である以前に人として大切な存在(元々そういう関係性の人を撮影対象にする場合が多い)であると認識しているし、撮影でお世話になった人たちのためにも、堂々と胸を張って世の中に発表できる作品を作りたいという一心でこれまで製作を続けてきた。
また表現者として安易な自己都合に陥りたくないという思いもある。それらのことを天秤にかけて、あくまで常識の範囲内で、人の道を踏み外す前に自らのエゴに自覚的であろうと努め、どんな人にも誠実に向き合ってきたつもりである。
一方で、表現者として捨て切れないエゴがあり、これまで書いたように、相手や状況によってそのエゴが先鋭化され、被写体の人生を脅かしてしまうということも分かった。そしてそれは被写体に対する自分なりの「思いやり」や「優しさ」といった情緒的なもの(「大切である」というような相手に対する好意的・肯定的感情)で防げるものではないということも分かった。
僕の場合、今では大分改善されたと自分では思っているのだが、元来自己愛が強くて人の気持ちに意識が向かず、自分中心に物事を考えて人を振り回してしまうところがあるため、もしかしたらそうした性格に起因するところもあるのかもしれない。こうした自分第一主義的な性格は、ある関係性や状況下では作り手の強烈な個性とポジティブに捉えることもできるのかもしれないが、一方ではハラスメントを引き起こしやすい性格とも言えるのかもしれない。
ちなみに最近ではサイコパスよりも厄介なダーク・エンパスなる人格が発見されているが、認知上の共感力を駆使して人の懐に分け入り、自分の目的を果たすといった面が自分にもあることを考えると(要は自分が作りたい作品を作るために被写体との信頼関係を築いたり、自分が称賛されるために人や社会への理解・関心があるように見せかけたりする面が自分にもあることを考えると)、自分ももしかしたらこれに当たるのではと思ったりすることもある。
しかしすべての因果関係を個人の性格や人格の問題にしてしまっては、必要な議論も深まらず、対策も講じられない。そこにはさまざまな要因が重なってこのような先鋭化が起きるはずなのである。
そして作品によっては、作り手の切実な問題意識や常識を超えていく力強さの陰で、こうした先鋭化が良しとされてしまったり、見落とされてしまっている部分も多分にあると思う。今年劇場公開された日本の入管問題に関するドキュメンタリー映画『牛久』におけるトーマス・アッシュ監督と被写体との間のトラブルも、もしかしたらこの例に挙げられるのかもしれない。(参考として、この件について2022年2月10日にツイッターで自身の考えを14連続ツイートしたものを本文の最後に引用している。)そこは観客も安易に評価せず、作り手の倫理や作品の成り立ちを注視する必要があると思っている。(場合によっては作品を観るという行為自体が加害になってしまうこともあるのである。)
僕の場合、幸いなことに、これまで撮影してきた人が身近な信頼している人で、普段からお互いに本音の意見を交わし合っていたからこそ、相手も疑問に思ったことはすぐにぶつけてくれて、そのおかげで自分の撮影のあり方を見つめ直し、修正することができた。
しかし本来であれば、自分の表現が被写体に疑問を持たせたり苦しめたりしてしまう前に、節度を守って自分のエゴをコントロールしなければいけないし、それができない人間は、そもそも人を扱う表現などやるべきではない。その点に関しては、自分は本当に人として未熟だったと思っているし、今でも自分のような人間はこの先ドキュメンタリーは作らないほうが良いのではと思うことがしばしばある。(ドキュメンタリーはおろか、表現すらも。)
こうした自身の経験(ある種の失敗)から、「人を尊重する」ということについて、「被写体を敬う」ということについて、人権的な観点から、これまで以上に自覚的に考えるようになっていった。そして作品にとって本当に大事なのは、常識を超えた作家性でもむき出しのリアルを追及する姿勢でもなく、「映画の撮影」という前提の中で被写体の権利を保障し、被写体が安心と信頼を寄せられる体制の中で撮影を進めることなのだと改めて思うようになっていった。そしてそこでのルールをちゃんと守れているものこそが健全で胸を張れる映画であり、成熟した形なのだと思うようになっていった。
5.搾取やハラスメントを自覚・防止するために
被写体を一人の人間として尊重せず、自分に都合よく利用するのであれば、それは搾取の構造と変わりない。映画が大義を掲げる裏で、このような搾取が行われているとしたら、それは果たして健全で胸を張れる映画と言えるのだろうか。
性暴力や暴行のような身体的な暴力を伴わないにしても、自分の満足や幸せを優先した結果、相手の精神を追い詰め、人生を脅かし、不幸にしてしまう類のハラスメント。そうしたハラスメントは間違いなく存在する。作り手のエゴ(社会的意義への盲信を含む)に端を発するこうしたハラスメントは、敢えて名付けるならばエゴ・ハラスメントとも言えるのかもしれない。(このような名称は検索しても出てこないので、筆者の造語になるが。)
パワー・ハラスメントやモラル・ハラスメントの一つとも言えるエゴ・ハラスメント。では個人製作の現場で誰にでも起こり得るこれを防ぎ、被写体を尊重しながら進めていくためにはどうしたら良いのか。
そのための一つの方法として、作り手にとっても被写体にとっても信頼できる第三者に製作に関わってもらい、見守ってもらうことが有効であると考える。
ドキュメンタリーの場合、デジタルの進化もあって個人製作が多く、また製作の進め方やペースは作り手によってさまざまであることから、その内実は外部に閉ざされてしまうことがしばしばある。
そして基本的に作り手には「表現したい」「伝えたい」という思いが強くあるため、一生懸命になればなるほどこうした強い気持ちが先走り、被写体が実際に感じている思いとズレてしまうことがある。さらに被写体の中では「協力したい」というポジティブな思いを持つ一方で、複雑な感情の揺れが生じ、言いたいことがあっても自分の胸にしまい込んでしまうことがある。こうして本音の議論を経ないまま物事を進めてしまうと、それはのちのち大きなトラブルにつながる可能性もある。
そこで被写体の思いを置き去りにして、強引に物事を進めることが無いように、被写体の納得と作り手の納得をきちんと擦り合わせる環境が求められるのである。その間を取り持つ人は映画関係の人である必要はない。(むしろ業界の専門性から離れている人のほうが良いのかもしれない。)どちらの立場も理解し、一緒に前に進む方法を考えてくれる人ならば誰でも良いのである。
作り手と被写体の個人的な関係で完結していると行き詰まってしまうところに、そうして状況を見守り、一緒に歩んでくれる人がいるということは、被写体にとっても大きな安心となる。
自分の例で言うと、ある映画の公開の際に、それまで綿密なやりとりをしてきたにもかかわらず、主人公との間にズレが生じてしまい、その課題に取り組むために公開を一時ストップしたということがあった。そのときに、お互いに信頼できる第三者(その人は映画関係の人ではない)に入ってもらったことで、互いに譲れない部分と譲歩できる部分を建設的に議論し、作品をより良い形にブラッシュアップしてお互いの納得の元に前に進むことができたということがあった。これはその経験からも言えることである。
ちなみに海外では、ハリウッドでの#MeToo運動以来、ヌード・シーンや疑似性行為のシーンにおいて作り手側とそれを演じる俳優の間を取り持つインティマシー・コーディネーターという専門職が起用されるようになっている。これは作り手側の演出意図に対して、演じる側に無理が生じないよう、俳優の身体的、精神的な安全を守りつつ、監督の演出意図を最大限実現できるようにサポートするスタッフのことで、日本では2022年6月現在で二人しかいないという。
このような調整役は俳優の尊厳を守り、表現の名のもとに作り手が俳優から搾取することがないようにするために非常に重要な役回りとなるが、自分がお世話になった人の役回りもこれに近いと言える。その人の存在が無ければ、自分は映画を発表することはできなかっただろうし、被写体との関係にも歪みが生じてしまったかもしれない。その意味で、映画の本当の完成へと導いてくれた存在と思っている。
また、最近では多くの製作チームが取り入れていることであるが、関係者全員でハラスメントの講習(リスペクト・トレーニング)を受けたり、ハラスメントについて学ぶことも重要であると思う。何がハラスメントに当たるのかを具体的に知ることで、普段何気なくしている言動の一つ一つを見直すことができるし、それによって立場に関係なく、「おかしい」と感じたことは堂々と指摘して良いのだという空気を作ることができるからである。これは作品ごとの現場を超えて、普段の表現や物事の捉え方にも影響を与えることだろう。
自分の場合、松江哲明監督の『童貞。をプロデュース』をめぐる性暴力問題の際には、被害者の加賀賢三氏のインタビューや松江哲明監督のnote、そしてf/22(作り手によるドキュメンタリー批評雑誌)が仲介役となって実現した加賀氏と松江監督の話し合いの記録などを当時の被写体に一通り読んでもらい、自身の製作のあり方を見つめ直す機会を作った。この件に関する出演者の苦しみも作り手のエゴも決して他人事ではないと思い、作り手にとって後ろめたい部分を隠さず共有することで、より良い表現のあり方を一緒に模索していきたいと考えたからである。(実は『童貞。をプロデュース』問題に関して、自分はこのときにいろいろ思うところがあって文章を書いたのだが、当時はまだ整理し切れなかったのと、今のように発信する媒体がなかったために発表しなかった。)
こうしたセンシティブな問題の共有はどんな被写体とでもできるタイプのものではないかもしれないが、一つの例として挙げておきたい。
また、搾取や暴力を生み出す構造は根底で繋がっているため、ハラスメントに限らず、日頃からさまざまな社会問題について勉強することが作り手にとっては重要であると考える。これはあらゆる物事に通じることだが、無知であるがゆえに、自分が加害的な立場に立っていることに気付かないということも往々にして起こり得るからである。
話しは少し横道に逸れるが、例えば障害の例で言うと、この社会のあらゆるシステムはいわゆるマジョリティ側である健常者に合わせた仕様になっているため、健常者にとってはその恩恵が当たり前過ぎて、自分たちがはじめから特権的な立場にあるということに気付かない場合が多い。
そのため、いわゆるマイノリティ側である障害者から見た社会の不均衡を認識できず、当事者が感じている不便さやその感覚の分からなさから、その不均衡を是正したいという当事者の声(人権の観点からの正当的な要望)をワガママと感じてしまうのである。つまり社会に合わせる努力をすべきは障害者であり、自分たちのほうから障害者に合わせることはマイナスと捉えるのである。
その背後には健常者が自覚していない優越感があり、そのさらに深層には、おそらく(いや確実に)「障害者の権利なんて軽んじられて当然」という本音も隠れているのだろう。そうして、ひどいときには声を上げる障害者に対して批判という名の誹謗中傷をしてしまう人もいる。(僕自身の身近な被写体に対する甘えも、無自覚にこれと同じ構造のことをしてきたのではと思うと心底恥ずかしいしゾッとする。)
こうした無知ゆえの無理解から、健常者自身は自分を差別など絶対にしない善良な人間と信じていても、差別をしている自覚が無いだけで、加害的な立場に立っていたり、差別の構造に加担してしまっている場合が多い。例えば「悪気はない」とか「知らなかったのだからしょうがない」とか「そういう声の上げ方は良くない」といった具合に、自分の無知を正当化し、逆に声を上げる人の怒りや憤りを「おかしい」とみなしてしまう空気もその一つだろう。つまり差別や加害は悪意がなくても起こり得るのである。
これはハラスメントでも同様のことが言えるだろう。自分が直接的に差別やハラスメント的な行為をしていなかったとしても、こうした無知ゆえの無理解が、苦しんでいる人の声を上げづらくし、「言ってもどうせ分からない」という思いにさせ、不平等やハラスメントの温床を作ってしまう。そして見えない苦しみは存在しないものとされ、さらなる無理解が二次加害をもたらす。こうした構造的な問題に気付かずにいられる人はいいかもしれないが、いつだって疲弊するのは声を上げる側なのである。
このあたりのことは、僕も障害に対する無理解と誹謗中傷の観点から過去にブログで文章を書いている。長い文章だが、よければご一読いただきたい。
■関連記事②「イメージの剥奪に抗う~人の尊厳を奪うネット社会の“集団的アイコン化”への警鐘~」
(※ちなみに社会問題を持ち出したりすると、「説教臭い」とか「映画にそんな正義感を持ち込むな」といった具合に拒否反応を起こす人もいるかもしれない。僕もつい数年前まではそんなふうに思っていた人間なのでその気持ちはよく分かる。しかし頭から拒否反応を起こす人ほど自身の加害性に無自覚であり、自身の無知を露呈していることに気付いていないということは、僕自身がそうであった経験から言えることである。)
以上のことから、自身の表現が人の権利を侵害したり搾取や暴力を生み出したりしないように、また関わる人の人格を軽んじることなく、人の痛みや苦しみをそのままにしないように、自分の無知を知り、正しい知識を得ることによって「ダメなものはダメ」ということをしっかりと学ぶことは重要であると考える。
それは誰かを裁くための「正しさ」を身に付けようという話ではもちろんない。映画作りへの情熱や被写体への好意的・肯定的感情といったあやふやなもので自分を誤魔化すことなく、自分を律し、自分の無自覚な加害について検証し、自分の幸せや満足のために誰かを不幸にすることなく生きるにはどうしたらよいのかという話である。よくよく考えれば、これは映画製作に限らず、社会の中でさまざまな人とともに生きていく上で必要なことでもある。
こうした観点に立つならば、本来社会に対して何かしらのメッセージを発信する立場である表現者こそ、ハラスメントに限らずさまざまな社会問題について学ばなければいけないはずなのである。これは表現がその時代の政治や社会と無縁ではいられないからこそ、そこで自分が世に何を問うべきかを真剣に考えるためにも必要なことなのではないだろうか。
そうして「志高く映画を製作する」というバトンを次世代に託すためにも、こうした人権的・倫理的な議論を続け、目に触れる形にしていくことが、今作り手一人一人に求められているのではないだろうか。
6.表現よりも大切なこと
以上、作り手に内在するエゴとそのエゴが引き起こしかねないハラスメント的態度、そしてそれを制御しつつよりよい製作のあり方を模索するためにはどうしたらよいのかについて、つたないながらも自身の個人製作の経験をもとに書いてみた。
あくまで自身の個別具体的な経験を頼りにした論考なので、あまり一般化はできないかもしれない。それでも普段可視化されにくい小規模製作者の一人として、自分たちの日々の表現活動における課題を少しでも見つめ直す機会になればと思い、整理して書いたつもりである。
そして最後に補足しておきたいのが、作り手として自らの特権性や加害性を意識し、細心の注意を払いながら真面目に製作していたとしても、一般的に被写体との間に齟齬が生じてしまうことは往々にしてあるということである。また長期間撮影する中で、被写体の社会的立場や生活環境、また考え方などの変化から、被写体自身の映画に対する気持ちが変わってしまうこともある。これらはある意味仕方がないことでもある。
そうして封印してきた作品が、自分にもいくつかある。自分の至らなさが引き起こしてしまったこともあれば、相手があってのことなので、どれだけ言葉を尽くして意図を伝えたとしても、自分の力ではどうしようもないこともある。ときには議論することすら許されずにシャットアウトされてしまうこともある。それに対して、相手に「どうして?」とは言えない。だからそこでどう対応するかが人として大事なところなのだろう。
ドキュメンタリーは現実との対話である。だから相手に「嫌」と思わせてしまったのであれば、心から反省し、何故そう思わせてしまったのかを考えなければならないし、明確な理由が分からなかったとしても、自分の想像の及ばない領域があることを素直に認め、相手の気持ちを第一に受け止めなければならない。
そこではときに撮らずに待つことも必要になってくる。そしてその「撮らない」あるいは「撮れない」ということそれ自体が、結果として何か大切なことを描くきっかけともなり得るし、最終的に作品が実らなかったとしても、それ自体が重要な意味を持つことになる。
正直、作り手にしてみれば作品は実ることありきという思いが強く、せっかくの時間と労力をかけて何も実を結ばないのは恐ろしいことでもある。そこで相手の人生を大切にするのか、あくまで自分のエゴを優先するのか。
当然ながら、人の命や尊厳よりも優先されるべきものはない。その苦渋の選択が誰にも知られなかったとしても、相手のことを考えて自分のエゴを手放すことが、難しいけれど実は一番大事なことなのである。
そして今被写体に受け入れられなくても、関係を続ける中で被写体の人生の中で変化が生まれ、それまでとは別の価値観の受容体が出来ていくこともあるかもしれない。あるいは作り手自身にも変化が生まれ、実らなかった時間の意味について、それまでとは別な捉え方ができるようになることもあるかもしれない。
そうしてお互いの気持ちが重なったときに、また一から始めるということもある。もう、それでよしとするしかない。少なくとも、お互いが出会い、そこに何かしらの交流と変化と学びが生まれたのだから。それは決して無駄ではなかったのだから。
7.ともにより良く生きるための方途としての映画
このように、人を記録し、表現するということは、自分とは異なる他者との関わりを通して、作り手自身がこの世界を知覚していくプロセスそのものとも言える。ときには相手の主張を煩わしく感じ、上手く行かないことに自信を喪失してしまうこともあるだろう。
しかし人と人はすべて分かり合うことはできないのを前提に、対話を重んじ、お互いの思いが重なるところでともに前に進んでいく。そうして自分のエゴのために相手を利用し、他者の権利を侵害するのではなく、対等な関係の中で相手を尊重し、ともにより良く生きようとすることで、新たな気付きや学び、そして可能性が生まれていく。そもそもドキュメンタリーに限らず、あらゆる人の営みがこれを前提に進められるべきなのだと思う。「映画だから」「芸術だから」特別にこの前提を覆せるなんてことはない。
僕は身近な被写体の一人である映画の仲間から、「映画監督も社会をより良くしようとがんばっているいろいろな職業の一つ。映画監督だから特別に尊重されるべき、なんてことは絶対にない」「みんなそれぞれに大切なものを守って懸命に生きている。ドキュメンタリー映画の撮影だからといって、監督に、被写体の人生を思うままに搾取し利用していい権利なんてない」「『目の前の人を幸せにしたい』という思いのない表現に、一体何の意味があるというのか」「被写体こそが我妻さんの活動に対する一番のボランティアなんだよ」ということをずっと言われ続けてきた。仲間は元々映画関係の人間ではないが、自分が最も信頼し、尊敬し、影響を受けている人物でもある。
仲間と出会う前の自分は、今よりももっと自己中心的で幼稚な人間だった。そしてドキュメンタリーを製作している人間であるにもかかわらず、政治や社会問題にあまり関心のない人間だった。過去の作品が社会的なテーマを扱っていたため、一見政治や社会問題についてそれなりの理解や関心があるように思われがちなのだが、「興味がない」と無邪気に言い放てるほど、実際にはほとんど何も考えていない、それよりも自身の承認欲求のほうが強い欺瞞に満ちた人間だった。(作家や活動家の中には、一見社会問題について熱心に考え、当事者へ寄り添っているように見えて、それは承認欲求から来る単なる演出で、実際には怒りも憤りも共感も覚えていないという人が一定数いると思う。)
2015年4月から地元の仲間たちとともに続けている「みやぎシネマクラドル」という会(主に宮城県を拠点に活動する映像の作り手と地元の作り手の活動を応援する市民が共同で運営する会)を立ち上げた際にも、その最初の呑み会の席で「政治的な活動とは無縁でやっていきたい」と言っていたくらいである。これは個々の政治的なスタンスがどうこうという話ではなく、自分自身が政治や社会問題について無関心なあまり、何とか社会を変えようと切実に活動している人たちの背景に対して全くと言っていいほど理解がなかったがゆえに出た発言である(今振り返れば恥ずかしいことである)。
そんなものだから、社会を変えるために正当な怒りの声を上げる人に対しても、無知であるがゆえに「むしろあなたのほうが物事を単純化して決め付けてやしないか」と冷ややかな目で見る人間ですらあった。それでいて自分は平等で中立な“善き人間”であると信じて疑わなかったのである。
そんな偏見と思い違いが少しずつ変わり、やがてあらゆる問題が根底でつながっていて、自分と無関係なことなど一つもないと思えるようになったのは、一重に仲間のおかげでもある。車椅子の難病患者として、社会が生み出す障害や人の疑いのない“善意”にしんどさを感じている仲間の痛みやいきにくさに触れて、それまで人の気持ちに対して単なる記号的な理解しかしていなかった(それゆえに、相手のこともその先にある社会のことも自分事としては本当に考えていなかった)自分の中に、はじめて人の痛みを「分かりたい」という気持ちが生まれていった。そして相手の悔しさや怒りや憤りを自分事として捉えるようになり、そこから「この社会は本当にどうしたものだろう」という強い疑問が生まれていった。その疑問は、今まで内側にしか向いていなかった自分の視点を外に広げ、「自分はどう生きればよいのか」「自分は何のために映画を作るのか」といった根本的なところにも影響を与えている。
このように、人との関わりによって人は変われるのである。それは映画業界も社会もきっと同じであろう。だからこそ、自分と向き合い続け、自分を変えてくれた仲間には本当に感謝しているし、そんな仲間が「この世界も捨てたもんじゃない」と、生きることを少しでも肯定できるような作品をこれからも作りたいと思っている。
別に社会を変えるための映画を作ろうという話ではない。(動機としてはとても大事なことだが、その目的に特化した映画は大抵つまらないものになると思う。)ただ少なくとも、関わる人を不幸にするような映画製作はあってはならない。本来映画製作にとって望ましい形とは、それによって関わる人たちがより良く生きることに繋がることだと思うから。それが幸せな形だと思うから。
8.おわりに
映像というメディアが登場して130年もの時間が流れた。その間、映像メディアは進化し、インターネットでは動画投稿サイトやライブ配信アプリなど多様なコンテンツが溢れている。これまでは多くの人が関わらなければ発信できなかった映像が、今や個人でいつでもどこでも誰でも簡単に発信できるようになっている。
人生を何百回生き直しても視聴し尽くせないほどのこうした消費型コンテンツは、大きな力や可能性を秘めている反面、依存性が高く欲望と結び付きやすい。今では生まれて間もない子ども世代まで巻き込んであまりにも大きな潮流となっているだけに、その依存性はときに思考停止という負のスパイラルを量産し、モラルの低下や価値観の偏向を促進することもあるだろう。こうしたコンテンツの存在で救われる人たちがいるのも間違いないが、自分の場合、どうしても弊害のほうに目が行ってしまい、正直未来に希望が持てない。
もちろん、映画にもこうした負の側面はたくさんあるが、それでもこれら一時の消費型コンテンツとはまた違った強みがある。それは製作に時間をかけた表現だからこそ、時代を解剖し、分析し、人が生きるとはどういうことかをより強く、深く社会に問うことができるという強みである。
その大事なコンテンツをオワコンにしないように、自らの加害性に無自覚な一部のユーチューバーやインフルエンサーに負けてしまわないように、関わる人びとが自問しながら健全なあり方を模索し、その魅力と可能性を追求してゆく必要があるのだろう。
そして僕自身も「自分だけは例外」などと思わず、自分が提示した倫理観と理想論に基づいて、常に自問しながらがんばって作品を作り続けていきたい。
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【参考】
以下、ドキュメンタリー映画『牛久』公開に関する2022年2月10日の自身のツイートを引用。
あるドキュメンタリー映画(未見/理解不足のためタイトルは控える)に関する被写体関係者の文章を読んで個人的に思うこと。
➀前にも書いたが、基本的にドキュメンタリーをはじめ、現実に生きている人を扱う表現というのは被写体(対象)の納得が得られてはじめて成り立つ表現だと思っている。
②生きている人にしても亡くなった人にしても、誰しもが何かしらの繊細で複雑な事情を抱えている。何かの当事者であることを積極的に公表したくない場合もあれば、被写体になることを積極的には望まないけれど、「自分が映ることで何かの役に立つのなら」と撮影に協力してくれる場合もある。
③そこでは、作り手がいかに誠心誠意作品制作に臨んでいても、さまざまなリスクが発生する可能性がある。被写体の実生活への影響もそうだし、そもそも「人を描く」という行為自体に内在する表現上の課題も付きまとう。このことは、自分の生と24時間向き合い続けている人にとってはより脅威となる。
④こうした人の人生を扱うのだから、そこでは丁寧な同意形成のプロセスが必要になる。どんな社会的意義を持ち出しても、基本的に作りたいのは作り手側の勝手な事情で、「伝えることの大切さ」や「知ることの大切さ」のために軽んじられて良い人などいない。どんな人もそのための単なる素材ではない。
⑤だからこそ、作り手は被写体からの声にきちんと耳を傾け、現実と対話する姿勢を持つことが求められるのだが、そこに関して、被写体からの消極的同意(一切関わらない)をOKとした監督側には大いに疑問が残る。それは作品に大きな課題があるということから目を背ける行為に他ならないからである。
⑥今回の件で言えば、被写体の方がある時点までは監督のことを好意的に見ていたのは間違いないのだろう。関わることに何かしらのメリット(それこそ社会的意義)があると感じたからこそ、多少のリスクを犯してでも無償で協力したいと思えたに違いない。その気持ちを繋げるのは「信用」に他ならない。
⑦しかし監督側に不信が生じたのであれば、当然その気持ちが変わることもある。そこに対して「何故協力しないのか」とは誰にも言えない。そもそも被写体に映画に協力しなければならない義務などないし、作り手と被写体は別人格なのだから、作り手側の都合や熱量を被写体に押し付けることもできない。
⑧それでいうと、作り手は被写体の意向を最大限尊重し、それに真摯に向き合わなければならないはずなのである。整理できない問題があるのなら、無理に進めない。とくに映画は独り歩きを始めたら観る人のものになっていくので、さまざまなリスクから被写体を守るためにも最大限の配慮が必要である。
➈そしてどれだけ言葉を尽くしても、「NO」と言われたら受け入れる。被写体の「NO」を超える権利は作り手には無い。時間が経てばきっと分かってくれるだろうという甘えや自分本位な考えはそこでは通用しない。一度手順を間違えたものは取り返すのは難しい。と、自分の経験からは想像する。
⑩作り手が自分の表現を世に問いたい気持ちは重々分かる。しかしそれを抑えられるかが人として一番大事なことだと思う。自らのエゴを最優先して、被写体の気持ちを置き去りにした表現は幸せな結果を生まない。それは一見意義のある作品に見えて、人の不幸の上に成り立っている歪な表現と変わりない。
⑪それでもこの作品には大きな意義があり、多少の犠牲があったとしても、人に観られるべきだという声もあるのかもしれない。被写体関係者の方が「映画それ自体がどうなるかは、わたしの知ったことではありません」と切り離している理由には、もしかしたらそうした側面もあるのかもしれない。
⑫しかし曖昧にしてはいけないのが、社会的意義や表現というものは、人の命や尊厳よりも優先されるべきものではないということである。前にも書いたが、そのために誰かの人生があるわけではない。そして作り手が勝手にやりたいことのリスクを一番引き受けるのは作り手ではなく被写体なのである。
⑬最近、この業界で大事な仕事を残している重要な人たちが、自分のエゴを抑えられず倫理的に間違ったこと(思いの行き違いの結果としてズレが生じてしまったというよりも客観的に見てアウトと思われること)をして問題になることが多い気がする。これは業界全体の影響を考えても気になることである。
⑭今回の件も、関係者の方にこのような形で声を上げさせてしまったことを考えると、監督が不信を与えたことは事実なのだろう。声を上げた相手を「おかしい」と思うのではなく、その事実にもう一度向き合い、自身の表現や同意形成のプロセスに問題が無かったかを見つめ直す必要があるのではないか。
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■関連記事③「ある原稿~人を記録し、表現するということ③~」
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