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執筆者の写真Kazuki AGATSUMA

人を記録し、表現するということ➀

僕は映像を用いて現実に生きている人を記録し、表現するということを自分の“仕事”としている。(ここであえて“仕事”と言っているのは、それが生計を立てるとか、誰かに求められているのかといったこと以上に、自分がやむにやまれぬ思いから勝手にやっていることだからである。)


そしてこの“仕事”は、ジャンルで言うとドキュメンタリーというものに分類される。(ここで言うドキュメンタリーとは、「現実の断片を素材とし、それを作り手の意図を込めて再構成する表現手法」のことを指すが、本文中ではそうして作られた作品そのものも含めて全てドキュメンタリーと表記することにする。)


この“仕事”をする上での心がまえのようなものについては、ピーストゥリー・プロダクツの活動理念(2020年2月10日公開)に書いてあるので、そちらをご一読いただきたい。


この中に、


作り手自身が映画製作を通して表層的なものの見方や考えを何層も更新し、「人間」や「社会」の複雑で繊細なありようをこれからも提示し続けること


(中略)


時流に流されることなく、自身の「伝えたい」という切実さと個別具体的な経験を頼りに、「人間」や「社会」の営みを深く掘り下げた厚みのある作品を作り続けたい


という二つの文章がある。


これらは、僕の“仕事”の理念を示す上で、とても大事な文章である。


実は、この二つの文章の後半部分は、公開直前までは


作り手自身が映画製作を通して表層的なものの見方や考えを何層も更新し、まだ誰も触れたことのない「人間」や「社会」の新たな側面を提示していくこと


(中略)


時流に流されることなく、自身の「伝えたい」という切実さと個別具体的な経験を頼りに、「人間」や「社会」の本質に迫った100年先まで残る映画を作り続けたい


というふうに書かれていた。


ただ、思うところがあり、公開の段階になってこの表現をごっそり変更することにしたのである。


以下、何故そうしたのかについて、自身の“仕事”を通して考えた極めて個人的なドキュメンタリー論とともに説明したい。


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もちろん、<まだ誰も触れたことのない「人間」や「社会」の新たな側面を提示していくこと>も、<「人間」や「社会」の本質に迫った100年先まで残る映画を作り続けたい>ということも、僕自身心から望んでいることでもあるし、実際何かの機会に「あなたの表現が目指すものは?」といった類の質問をされたときに、ずっと答え続けてきたことでもあった。


しかしその言葉の中には、どこかに「こんなことができた自分のすごさをアピールしたい」という自己中心的な欲求が見え隠れしている。つまり一番大事にしたいのは、何よりも自分自身の表現欲や名誉欲であるという無邪気でピュアな本音がそこに現れているのである。言葉とはそういうものだ。


もちろん、そう思うこと自体は悪いことではないと思うし(人に迷惑をかけなければ)、実際そう思って表現活動をしている人もたくさんいると思う。しかしドキュメンタリーの場合(さらに一事業の外部に向けた文章を意識した場合)、そこには生身の人の人生を扱うからこそ、考えなければならない大事なことがある。


つまり何が言いたいかというと、ドキュメンタリーとして現実に生きている人を記録し、表現するということは、潜在的に、被写体となってくれた人に対して何かしらの負担を背負わせるリスクがあるということである。これは別な言い方をすれば、自分の表現のために人の人生を振り回したり、利用したりすることにもなりかねないということでもある。


ここで言う負担とは、必ずしも分かりやすいトラブル(例えば撮影時に踏み込み過ぎて相手の反感を買ってしまったり、公開時に個人情報が晒されたりNG行為が発覚してしまうようなこと)だけとは限らず、もっと微細で表面的には分かりにくいものも含まれる。


そしてこれは、作り手がどれだけ誠心誠意作品制作と向き合っていても、そのプロセスの中で必ず直面せざるを得ない倫理的な課題と地続きのものであり、そもそものドキュメンタリーの構造と密接に関係しているものとも言える。


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当り前のことだが、ドキュメンタリーは今まさに生きている人の人生そのものをそっくりそのまま描けるものではない。それは原理的に不可能だからこそ、作り手はあらゆる試行錯誤(演出もその一つだろう)を繰り返して、“ある面において”その人や社会の本質と思われるものを浮かび上がらせようとする。


ただし、被写体が自分自身の人生を生きることと、作り手がその人に魅力を感じ、その人を通して世の中に訴えたい形というのは必ずしもイコールではない。その中で、作り手の目的に対してある程度賛同し、理解を示してくれる被写体の協力によって、作り手の目的に合致する断片が紡がれ、その結果、実際に生きている“その人そのもの”とは異なる位相を持った一人の人間のイメージが作品として形作られていくのである。


この過程で、多くの作り手は、自分の表現が現実から何も学ばない独り善がりなものになっていないか、被写体が作品を成り立たせるための単なる素材になっていないか、その人のあるがままをちゃんと見つめようとしているか、悩み、自問自答する(はずである)。しかし作り手の中でいかに崇高な目的があり、目の前の人や現実と真摯に向き合っていたとしても、人が生きる上で一つの意味に回収できない繊細で複雑なものを作品のために一元化するのだから、当然そこには描かれる本人だからこそ感じる微妙なズレが発生する。


また、そうして形になったものが人に観られるとき、映っている人はまごうことなきその人自身なわけだから、本人の実態とは切り離されて、あたかも作品で描かれたとおりの人であるかのような印象を観る人に与えることにもなる。それは、作り手がいかに好意的に描き、観客も好意的に鑑賞してくれたとしても、一つのイメージを固定化することにもつながり、当の本人にとってはある種の違和感(自分であって自分でないようなむずがゆさや、場合によっては苦痛)を伴うものだろう。


だからこそ、ドキュメンタリーは撮影をはじめる前に、それをどのような形で世の中に発表したいかも含め、作り手の意図をしっかりと伝えた上で、被写体との間にしっかりとした合意を形成する必要がある。さらにこれは、どんなに気が重く苦しくても、決して曖昧にせず、撮影の進行過程でも更新されなければならない重要なことでもある。とくに作品を作るという行為は、それが作り手側の勝手な事情(この勝手な事情を「社会的意義」と思い込んで「あなたは協力すべきだ」と押し付けてしまうこともあるのだが)からスタートすることが多いため、これは普通に考えて、礼儀としても必要なことである。


そして作品が完成したら、広める前に必ず主人公ご本人や関係者に確認してもらい、こちらの意図をきちんと説明した上で、事実と異なる部分は無いか、都合の悪いことは無いか、描かれ方に不本意なことやズレは無いか、納得のいくものになっているか、被写体にモヤモヤとしたものが残らないよう、本音の議論を交わす。そこでは、撮影時点では被写体もあまり深く考えていなかったのが、実際に作品を広める段階になって改めてそれが「作品」であることが意識され、そういう段階になってはじめて浮かび上がってくる問題というのもあるだろう。


そして上映後の反応やリスクも想定して、作り手もうしろめたいことが無いよう包み隠さず全てを話し、さらに相手の意見も受け止め、その上で許可をいただくからこそ、初めて映画を堂々と広めることができるのである。これはドキュメンタリーもフィクションであるとかいう以前に、人の人生の一部を映画のためにお借りしたわけだから、当然の義務と言えるし、被写体をさまざまなリスクから守るためにも絶対に必要なプロセスである。(実際に、相手がどんな人であれ、どんなケースであれ、これをしっかり踏まえていないと、被写体に甘えて大きな負担をかけてしまったり、知らずのうちに追い詰めてしまうこともある。)


そしていかに作り手の中で作品に手ごたえを感じていたとしても(仮に第三者から見て意義深い作品になっていたとしても)、もし被写体本人にとって納得がいかず、それが広められることにどうしても耐えられないとしたら、その映画は再検討するか、被写体の思いが変わるまで待つか、最終的に封印するかしかない。作り手にしてみれば非常に辛いことかもしれないが、社会的意義や誰かの表現のために人の人生があるわけではないからである。


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どんな作り手も、被写体の思いを踏みにじってまで何かを推し進める権利などない。その思いを無視できたら、考えずにいられたら、確かに楽でいいかもしれない。(実際僕もそうしたくなるときはある。)


しかしそれは現実から学ぶことを否定し、自らの欲望を優先して、対象の人生から搾取する侵略者であることと本質的には何も変わらず、その作品の魅力は上辺だけのものになってしまうだろう。決して作品がおもしろければいいとか大義があれば許されるとかいうものではないのである。(ただし、それが権力やある政治的立場を批判する目的ならばまた話が変わってくるが。)


そしてもし作品を承諾してくれたとしても、描かれた側の人からすれば、本当は言いたいことがあるのだけど作品に何かしらの希望を託し、個人的な思いを押し込めているということもあるかもしれない。人によっては、複雑な思いを抱えながらも「これが誰かの役に立つのなら」と上映に協力してくれる場合もあるだろうし、至らないところがあっても、作り手の思いに呼応して「一生懸命作ったのだから」と引き受けてくれる場合もあるだろう。


こうした作品に対する被写体の受け止め方と微妙な思いの濃淡は、その人の事情によっても異なるだろうし、その人を全人的に描く場合(例えばその人を主人公にあらゆる角度から人間像に迫る場合)と部分的に描く場合(例えば出演者の一人として一つのパートを担ってもらう場合)でも異なってくるだろう。また、自分に何か伝えたいものがあって積極的に表現されることを望む人と、そもそも表現されることを積極的に望まない人とではまた違ってくるところもあると思う。


いずれにしても、気付く気付かないとに関わらず、作り手は常にこうした被写体の微妙な思いを意識し、作品を発表してからも配慮し続ける必要がある。そして被写体が胸に秘めた思いに気持ちを向けることが無いままに、自分は何でも分かっているつもりになって作品を広めて自己陶酔に浸るのは、何か大切なことが抜け落ちているような気がするし、作品に反映できているかどうかに関わらず、その思いを知っているかどうかでは、作品を語る上での作り手の言葉も絶対に変わってくるはずなのである。


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このように、大前提として、ドキュメンタリーは被写体に対して何かしらの負担を背負わせる側面がある。それは作り手の覚悟や経験の有無に限らず、常に付きまとう倫理的な課題でもある。


ときには作り手の“伝えたい”という思いの強さのあまり、被写体の思いを無自覚に代弁し、その言葉を奪ってしまう危険性もあるだろうし、よかれと思ってのことが相手の権利や人格を踏み越えてしまうことさえある。人によってはそれがとくに気にならず、問題として認識されないようなことが、別な人にとっては存在を脅かすものすごい脅威となり得る場合もある。作り手に悪意が無かったとしても、姿勢の持ち方次第でそういうことは起こり得るのである。(このように作り手本人が自覚していない人間性が作品に現れるのがドキュメンタリーの奥深さでもある。)


それを考えると、一番大変なのは被写体なのである。ドキュメンタリーは決して作り手の力だけで成り立つものではない。だからこそ、上辺だけの“誠実さ”を隠れ蓑にせず、“寄り添う”などの思い込みや欺瞞で自分を飾らず、自分の意図をしっかり伝えて、お互いの思いを伝え合って、映画を通して相手の人生に何かいい影響をもたらせたときの喜びは大きい。また、自分が世の中に対して訴えたいことが観客に伝わったときの喜びを共有したり、それによって被写体の中で新たな発見が生まれ、ほんの少しだけ何かが変わり、より良く生きることにつながったとしたら、こんなに素晴らしいことはない。


ドキュメンタリーは主観であるとか、フィクションであるとか、作り手の葛藤が大事だとか、作り手目線のあらゆることは単なる前提である。自分の努力のみを強調し、自分にまつわるものだけを肥大させるのではなく、その上で被写体の人生を何より大切にし、表現するからには自分の人生をかけてその尊厳を守り、映画を通して互いにより良く生きるためにはどうしたらいいのか。被写体の人生から搾取する侵略者になるのではなく、自分の表現のために人を使役するのでもなく、相手の考えや生き方を尊重し、ともに前に進む関係をいかにして作っていくのか。そこに向き合うことこそが、本当の意味での信頼関係を築くことにつながるのではないか。


もちろん、被写体となる人がみんながみんなそのような関係を望むわけではないと思う。どんな目的で何をどう表現するかによってもその距離感は変わってくるだろうし、中には作り手を信用して、「やりたいようにやればいい」と委ねてくれる人もいるのかもしれない。しかしドキュメンタリーにとって(そして現実に生きている人を記録し、表現するあらゆる立場の人にとって)、忘れてはいけない一番大事なことはこうした被写体への敬意であり、作家性などは二の次に来るものなのではないか。


そう考えると、今まで作り手目線でものを考える癖の強かった自分の言葉の一つ一つを見直す必要に迫られ、冒頭の表現を変えるに至ったのである。


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…と書くと自分が一人で自発的に考えたことのように聞こえるが、実はプロデューサーから「もっとちゃんと考える必要があるのではないか」と再考を促されたことが大きい。今までドキュメンタリーを通してそれなりにいろいろなことを経験し、目の前の人や現実と向き合うということについて悩み続けてきたつもりの自分であっても、言葉の一つ一つに現れるように、まだ自分の中でしっかりとした学びの次元に至っていないものはたくさんある。そんな自分にとって、自分の生き方も含めて、表現についてのあらゆることを見つめ直させてくれる存在が今のプロデューサーであり、同時に現在の被写体の一人でもある。そのように自分への疑問をしっかりと伝え、真剣に向き合ってくれる人が身近にいてくれるのは本当にありがたいことである。


そんなこんなで、ドキュメンタリーはなかなか難しい表現であるが、だからこそ可能性もあると思っている。人の人生も事実も作り手の勝手な都合でいいようにはできない厳然たるものだからこそ、ドキュメンタリーは一つの説得力ある表現として成り立っていると思うし、それこそがドキュメンタリーの力であり、魅力なのだと思う。


そしてこの“仕事”によって、自分ははじめてこの世界とつながり、この世界から学び、幸いなことに自分がこの世界で役割を持って生きていることを実感することができている。なので、もうしばらくはこの“仕事”は続けていけそうである。


以上、簡単に説明するつもりが大分長くなってしまったが、最後にもう一度だけ強調しておくと、ここに書かれたことはあくまで僕の個人的な経験に基づくドキュメンタリー論であって、ドキュメンタリーという表現手法自体は非常に幅広く豊かなものを扱っている。実際に、作り手の中にはここに書かれたことなど当然のごとく踏まえた上で、被写体との信頼関係をもとに豊かな創作を実践している人もたくさんいるはずである。


なので、人を記録し、表現するということにおける、現時点での一作り手の姿勢のようなものとして捉えていただければありがたい。いずれはまた別な角度からドキュメンタリーについて考えを整理する機会があればと思うし、僕自身、ピーストゥリー・プロダクツの活動理念に「表現のあるべき姿を模索し」とあるように、もっと経験を積んで大事なことを学び、自分の考えや言葉を更新していければと思う。


今までの作品がそうであったように、一つの結果を出すまでにはなかなか大変な時間がかかるが、とりあえず一つ一つ地道にがんばり、意義のある仕事を残していきたい。




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