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  • 執筆者の写真Kazuki AGATSUMA

イメージの剥奪に抗う~人の尊厳を奪うネット社会の“集団的アイコン化”への警鐘~

<目次>

1.はじめに~伊是名夏子さんの炎上について思うこと~

2.今回の「乗車拒否」問題を考えるための前提となる知識について

3.車椅子ユーザーと公共交通機関

4.伊是名さんの行動の背景と当日の状況への理解

5.伊是名さんの発信の本来の意図と今回の炎上を考える

6.ネット社会の“集団的アイコン化”から人の尊厳を守るために

7.補足


**********



1.はじめに~伊是名夏子さんの炎上について思うこと~


コラムニストの伊是名夏子さんが4月4日に公開したブログ「JRで車椅子は乗車拒否されました」が炎上し、ツイッターではご本人への無数の批判や非難の言葉が寄せられるほか、誹謗中傷にまで発展する事態となっている。最初の投稿からすでに1ヵ月半以上が経つが、未だに伊是名さんがツイートする度に数百件ものリプライが付くような状況である。


この件について、まだ触れたことがないという人は、まず下記のリンクから伊是名さんのブログを読んでいただき、ツイートへのリプライを読んでいただきたい。


最初にはっきりしておくと、僕は伊是名さんとは面識もないし、そのお人柄についてもよく知らないが、今回の件に限っては「別に非難されるようなことではない(責め立てられるようなことではない)」という立場を取っている(誹謗中傷など論外である)。つまりどちらかと言われれば擁護派に当たる。


おそらく、僕も数年前であれば伊是名さんの行動に疑問を感じるだけの人間だったであろうことを考えると、批判する人の言い分や言いたくなる気持ちが分からないわけではない。そしてこれはあくまで個人的な印象の話になるが、伊是名さんのこれまでの発信から感じた“その人らしさ”のようなものが、今回の件を複雑にしているところは少なからずあると思っている。


しかしそれらを加味したとしても、批判の多くが誤解や無理解や偏見に基づくものであるように思えて見るに堪えない。


この件について、4月12日時点で僕がFBに投稿した文章をツイッターにも転載したところ、いわゆるアンチ(ここでは批判・非難・誹謗中傷する人びと全般を指す)から多くの反応があった。


(※ツイートのリンク先である僕のフェイスブックの投稿は現在非公開にしてあるため、同文をこの記事の最後の【7.補足】に転載しておきます。今読まなくてもとくに問題ないと思います。)


こういうことは初めてだったので、ある意味新鮮に思うと同時に、この炎上の中でも大事なものを見失わず、守るべきもの(障害への理解や人への想像力や伊是名さんの尊厳)を守るためにも、より具体的な言葉でなるべく丁寧に発信することの必要性に駆られた。


伊是名さんに対する批判をまとめると、大きく以下のものが挙げられる。

・JRの対応のどこが「乗車拒否」なのか

・どこが「差別」なのか

・伊是名さんの問題提起の仕方が良くない

・非常識で共感を得られない

・感謝の心が足りない

(※政治目的でわざとやったというのはご本人も否定しているので考えない)


もちろんいろいろな考えがあって当然だし、批判するのも自由だ。批判する人にもそれぞれの人生があって、今まで生きてきた時間があって、さまざまな思いがあって発言しているのだろう。実際に会えばとても魅力的な人なのかもしれないし、共感できる部分も分かり合える部分もあるのかもしれない。(実際、批判の中には一部真っ当と思えるものもある。)それをネット上の言葉や態度だけで決め付けて、わざわざ分断を促進するようなことはしたくない。


一方で、伊是名さんに寄せられる批判の多くが、障害の考え方や法的根拠などの前提となる知識、また伊是名さんの行動の背景や当日の状況への理解、そして何より、自分に抜け落ちている世界の見方・感じ方があるのではないかという疑問が無いままに行われているような気がする。そして多くの場合、批判する人の中でこの姿勢は省みられることはなく、むしろ積極的に選択されている。


つまりどういうことかというと、多くの人にとっては、伊是名さんを理解しようとする気などはじめからさらさら無いのでは、ということだ。自分を疑うなんて面倒なことはしたくない。相手を傷付けるかもしれないなんていう想像力も必要ない。とにかく非難したい。正したい。あるいは誹謗中傷したい。このお祭りを楽しみたい。そんな衝動に駆られているだけのような気がしてならない。


そしてこの動きに便乗して、おそらく多くは収入目当ての、自分の意見と“物分かりの良さ”を表明したいだけのユーチューバーがたくさんの動画を作り、投稿している。中には元々ファンの多い大型ユーチューバーもいるので、これらの動画の視聴数を合計すると500万~1000万は行くかもしれない。率直に言って、余計なことをしている感じが強い。


また匿名のユーチューバーによって、伊是名さんの過去の発信を晒した解説動画も作られている。これらの動画は内容をあえて曲解して伊是名さんを悪者に仕立て上げ(作り手に本当に読解力が無いとしたら逆に憂慮してしまうのだが)、人の不幸を出汁にして自分の欲望を満たしているという点で非常に悪質であり、中には心の闇としか形容し難い悪趣味なものまで出回っている。


これらのユーチューバーが、「この人は分かろうとする必要が全く無い間違えた人」というイメージを作り上げ、広めるのに加担している。そして生き物としての原初の欲求のままに、誰かを叩いて満足したいだけの思考停止した無数の人びとの負の感情の捌け口として、ツイッターのリプライ欄や動画のコメント欄が埋め尽くされている。


率直に言って、僕はアンチの言論しか目に入らない現在の状況を非常に危惧している。つまりアンチからの強烈な干渉を恐れて、伊是名さんの行動を部分的にでも擁護したい人が何も表明できなくなってしまい、結果的にネット上にはアンチが恣意的に作り上げたネガティブなイメージしか残らなくなってしまうような状況である。


ちなみに、僕は伊是名さんのことをよく知らないと書いたが、参考までにアンチが伊是名さんを貶めるために作った解説動画で過去の発信を振り返ったことで、そのお人柄を少し知ることができた。(その低俗な動画に賭ける作り手の熱量やコメントする人のリテラシーの無さを考えると、この国の行く末が心底心配になるし、そもそも題材が誰であろうと、このような動画を作ろうと思う人の気持ちがよく分からない。)


正直に言うと、4月4日のブログを読んだときもそうなのだが、無防備で危なっかしいところがあるなと思ったのは確かである。これは性格的なところなのかもしれないが、表現がやや直感的で、ご本人を知らない人には誤解を与える可能性や、「ちょっと引っ掛かるかな」と思わせるところがあるように思えたのは否めない。(最初に「“その人らしさ”のようなものが、今回の件を複雑にしている」と書いたのはこの意味である。)しかし同時に、真っ直ぐで率直で、実際にお会いしたらきっととても魅力的な方なんだろうなとも思った。そして過去の発信には、自分にも分かる部分、共感できることが多々あった。


この一人の人間の歴史が、圧倒的多数の浅はかな思い込みと歪んだ“正義”により、いたずらに塗り替えられようとしている。一つ一つの発信の行間に込められた思いも心の機微も、「間違えた人」という絶対的な決め付けの下に都合よく解釈され、加工され、ネタにされ、何も知らない、知る気もない人たちから人生そのものにまで勝手な評価を下されている。怖いのは、みんな自分の善性への疑いが全く無く、自分の満足のために一人の人を確実に追い詰めていることをなんとも思っていないことだ。むしろそれが社会のためとさえ思っていそうなところに危機感を覚える。


そこには、理屈抜きに「何となく気に入らない」といった個人的感情もあるのかもしれないが、端的に言って、僕はそこに本人が自覚していない差別意識や優越意識や知的怠惰があると思っている。(ユーチューバーの動画などはまさにその典型で、本人が作りたくて作っているだけにダダ洩れ感が半端ない。)


それ以外にも、自分の正義を振りかざし、自分の主義主張と異なる相手を否定もしくは攻撃しなければ気が済まない排斥感情や支配欲があるのかもしれないし、自分がちょっとでも不愉快に感じた相手や自分の思い通りにいかない相手に強い怒りや恨みを抱く被害者意識もあるのかもしれない。これらは多少なりとも誰にでもあることだし、僕にも思い当たることがたくさんあるが、それが誹謗中傷のようにあまりに本性が剥き出しのものになってしまうと哀れで幼稚で愚かとしか言いようがない。


しかし今これらのことを指摘したところで、おそらくほとんどの人は「自分のことではない」と言ってピンと来ない(考えようともしない)だろうし、むしろ「おかしいのはお前だ」と言って怒りだすのが関の山だろう。誰だって、「自分は絶対に正しい」と信じて安心し切っているところを根本から揺すぶられるのは嫌だろうし、「もしかしたら自分が間違っているのかもしれない」なんてことは、(仮に薄々気付いていたとしても)考えたくもないことだからだ。(ちなみにそういう人ほど刺激を受けると難癖をつけられたようにものすごい拒否感を示す。)だからこそ、多くの人が特定の誰かを非難することで「自分は何も悪くない」と自己を肯定し、人より優位な場所にいる自分の安全性を確認して、気持ちよく思考停止し続けようとするのではないだろうか。


そこでは、社会の構造的に不利益を被り続けている人の痛みや苦しさなど全く目に入らず、カワイソウなのは常に自分(あるいは自分が共感しやすい自分と同じ側に立つ人)であり、都合の良い被害者意識のもとに、真摯に知ろうとする努力を放棄する自分も他者への想像力を持とうとしない自分もいくらでも許してしまえるのだろう。要は人の苦しさのハードルはどこまでも上げるくせに自分の苦しさのハードルは下げられるところまで下げ、自分の至らなさには全力で目を瞑り、本当のところは何も考える気のない自分を全力で正当化して胡坐をかいて安心するための道具として、誰かを利用し、こき下ろしているに過ぎないのではないか。そしてその安心が脅かされるからこそ、声を上げる人に強い嫌悪感を示すのではないだろうか。


そうでなければここまで一人の人を集団で執拗に責める必要など無いはずだし、そもそもバリアフリーについて考えようという気持ちや声を上げさせて申し訳ないといううしろめたさが本当にあるならば、「伊是名さんのやり方が悪い」という糾弾だけでは終わらないはずである。しかし多くの人は、「あの人がおかしいのだから、おかしい人の言うこともやることも全部間違っているはずだ」という楽な発想のもとに、伊是名さんが白か黒かをはっきりさせて非を認めさせる(社会的制裁を加える)ことにしか興味がない。仮にそう思わせてしまう部分が本人の中に多少あったとしても、自分が伊是名さんの立場になったとき、そこまで理解の無い、不寛容で単純化しか求めない社会は非常に恐ろしく絶望的である。


そもそも、伊是名さんは決して間違えた人でもなければ非常識で迷惑な人でも無い、と僕は思う。今回の行動の背景にも、ご本人の中でいろいろな思いや社会への願いがあったはずで、それ自体は間違いなく本物であることは想像に難くないはずである。それすらも勝手に上書きして、人の中にある繊細で複雑なものを短絡的にアイコン化し、集団で尊厳を奪うような暴力は絶対にあってはならない。


これについて、社会が生み出す障害や人の疑いのない“善意”にしんどさを感じている電動車椅子ユーザーの仲間を持つ一人の人間として、また人の繊細さと複雑さを何より大事にし、人生をかけて被写体の尊厳を守る義務のあるドキュメンタリー映画の作り手として、この状況を何とか改善できないかとの思いから文章をしたためた。


理想としては、批判的な人たちに少しでも新しい発見があり、変わる部分があればいいなと思うのだが、自分の勉強不足と表現力の問題もあり、あまり期待はできない。ただ、どう考えたらいいのか、どういう立場を取ればいいのか分からずに迷っている人に何かが届けばいいなと思っている。高飛車に聞こえてしまったら申し訳ないが、とにかく、人の尊厳を奪うネット社会の“集団的アイコン化”(イメージの剥奪)への警鐘として、思ったことを書き残しておく。


前置きが長くなってしまったが(さらに熱くなってしまったが)、以下、問題の論点を自分なりに整理しながら考えていきたい。



2.今回の「乗車拒否」問題を考えるための前提となる知識について


まず、今回の「乗車拒否」問題を考えるための前提となる知識について、ごく簡単に触れておきたい。


今回の問題を考える上で欠かせないのが、「障害の社会モデル」「障害者差別解消法」「合理的配慮」という3つのキーワードである。これらはネットを紐解けばある程度概要を知ることができるが、松波めぐみさんが書かれたこちらの記事が導入として非常に分かりやすい(まさに必読とも言える内容である)。


松波さんの記事を引用すると、障害の社会モデルとは、<障害者が経験する生きづらさや不利益は、心身の欠陥のため(障害の医学モデル)ではなく、社会的障壁が原因である>とする考え方のことである。


「障害者」というと、一般的には未だに障害の医学モデル(個人モデル)に依拠したイメージが根強く残っているように思う。つまり、「障害者」とはその人自身に障害(問題)を持つ人のことであり、その障害を治療や訓練などで取り除くことによって社会に適合することが望ましいとされる見方である。


しかし障害の社会モデルの考え方によると、「障害者」とはむしろさまざまな障壁だらけの社会に生きる「被障害者」であり、取り除くべきは社会が生み出す障壁そのものであるということになる。そして再び松波さんの記事を引用すると、この考え方に基づいて、<障害者に「特別なことをしてあげる」(プラスの行為)ではなく、歴史的・構造的につくられた大きな大きなマイナスをゼロ地点(平等)に引き上げようとするのが、障害者差別解消法であり、合理的配慮という手段>ということになる。


それで、今回多くの人が伊是名さんに「JRへの感謝が足りない」と非難を浴びせているが、障害の社会モデルと障害者差別解消法に照らし合わせると、社会が作った障壁によって移動の自由が制限された伊是名さんが、そこで失われた移動・交通をめぐる権利を合理的配慮によって回復したに過ぎないことが分かる。


つまりこれは松波さんが言う「特別なことをしてあげる」(プラスの行為)ではなく、人権の問題として見る必要がある。(のちほど詳しく説明するが、多くの人が特別なことと誤解している今回のJRの合理的配慮は、そもそも特別なことではないということが過去の事例からも分かっている。)にもかかわらず「感謝しろ」という人たちは、この論拠を知らないか、差別している自覚が無いことになる。つまり皮肉なことに、平等になれたのは自分たちが「してあげたから」という優越意識に全く気付いていない人たちということになってしまう。しかし本来であれば、人と人が平等になる(ゼロ地点に立つ)のに感謝も何もない(原理的に感謝をする必要が無い)。


この論拠を踏まえているかどうかで、今回の伊是名さんの件は大分見え方が異なってくる。逆に言えば、それが多くの人に「感謝が足りない」とネガティブに捉えられてしまった所以でもあるのだろう。そして今回、多くの人が何の疑いもなく当たり前のようにこの言葉を使ったことによって、この社会を取り巻く生き辛さの要因が一つ露呈したように思う。


障害者の生き辛さは、その人自身が内に抱える問題に依るところももちろんあると思うが、そうしたものと常に格闘しているにも関わらず、その上さらに健常者中心の社会に合わせるよう強いられているところが大きいと思う。「自分たちが合わせてやったんだから感謝しろよ」という無言の圧力もその一つだろう。(障害者からしたら圧倒的に健常者に合わせていることのほうが多いのに、である。)


もちろん、障害者だからといってどんな状況でも100%擁護されなければならないとは僕も思わない。ただ、自分や身近な人が当事者になってみなければ分からない生き辛さというのは間違いなくあって(その一部を次の項で考えていきたい)、それを自分事として本気で考えたことがないからこそ悪気なく言える言葉というのも間違いなくあると思う。


健常者が疑いもなく使ってしまっている「優しさ」や「思いやり」と言った言葉に代表されるような、人によってもその人の気分によっても異なる曖昧かつ不確実なもの(当てにならないもの)で人の権利を保障するのではなく、いかに制度として枠組みを整え、認識を変えていくのか。


障害の考え方の知識が無いと、権利の問題と感謝の問題を混同し、自分も将来的に健常者に気を遣って迷惑をかけないように小さく生きなければならないのだろうかと悲観しそうになるが、今回の伊是名さんの行動は、そんな人でも当たり前に堂々と生きていられる社会を願っての行動で、自分の将来にも直接いい影響をもたらすものだったのだということは理解しておきたい。



3.車椅子ユーザーと公共交通機関


次に、車椅子ユーザーが公共交通機関を利用するということについて考えてみたい。


先に「原理的に感謝をする必要が無い」と書いたが、一応誤解の無いように断っておくと、僕も車椅子ユーザーである仲間とそれなりに映画の上映で各地を周り、日常的に都内の交通機関を利用する機会があるが、JRの対応は課題はあれど基本的にとても丁寧であると感じている。原理的に感謝する必要が無いにしても、清々しくお礼を言うことは度々ある。それはおそらく伊是名さんも同じで、今回は権利の問題が曖昧になってしまわないように、あえて表明しなかっただけなのだと思う。(この辺りは周りから見ると「どうして?」と分かりにくいところがあるかもしれないが、当事者として譲れない思いがあるということは理解しなければいけないと思う。)


ただ、公共交通機関も常に万全ではなく、たまに研修が行き届いていないのか現場の人の独断(職務怠慢や気分や差別)なのか、明らかにNGの対応をされることがある。一つ例を挙げると、過去(2019年9月)に、僕の仲間が地方のあるバス会社の長距離仕様バス(バスの腹部に荷物を積むタイプのもの)に一人で乗ろうと電話で問い合わせた際、職員から「一人で車椅子を担いでバスに乗せて自分で歩いて席に着けるならどうぞ乗ってください。それができるんですか?」という意地悪とも感じられる言い方をされたことがあった。


そもそもそんなことができるなら車椅子に乗ってないし、本人にしてみればできないことを突き付けられるのはあまりに酷なことである。それで、それ以上やりとりする気力を失くした仲間の代わりに、僕がバス会社の上層部に電話で抗議するということがあったのだが、もしかしたらこのバス会社のケースに限らず、場所によっては利用者の絶対数が少ないと、経験値の問題から車椅子ユーザーの扱いが慣れず、準備不足が常態化しているところもあるのかもしれない。(ちなみにこのバス会社のときは合理的配慮の提供義務の観点から一つ一つ確認し、職員の応対品質も含めて先方も否を認めてくれたのだが、先方の対応は極めて丁寧で、改善に向けてすぐ動いてくれた。)


もちろん、現場が忙しいという場合もあるかもしれないが、そうだとしても障害者の権利も平等である。よく仲間も言っていたが、「みんな大変なんだから我慢して」というのは健常者にありがちな論理で、非常時には普段からなかなか理解されにくい立場にある障害者がより苦境に立たされる面が強い。(ちなみに災害時には避難所にあえて「行かない」という選択をする障害者が多いのは、こうした事情によるものである。)だからこそ、私たちは平時からいろいろな人が生きているということを知り、「想定できなかった」ということが無いようにさまざまな意見を交わし、準備をしておく必要がある。(もちろん、「言うは易し、行うは難し」なのだが。)


こうした障害者が置かれている現状は、頭では分かったつもりになっていても、日常の細やかなところまで想像するのは難しい。僕もそうだったが、自分事として関わることが無ければなかなかその大変さには思いが至らないし、そもそも段差がどうとか幅がどうとかいった、本当に初歩的な車椅子目線での発想すらできない。JRに感情移入できて伊是名さんに感情移入できないのは、このように感覚的に分からないところも大きいのではと思う。


その意味で、公共交通機関を利用する上での車椅子ユーザーの実感を記述したこちらの記事がとても参考になる。


僕も仲間と行動する上で身に覚えのあることが多々あり、共感できることが多い。同時に、自分が当たり前と思っている世界を反転したような世界の見方・感じ方の一端を教えてくれる記事でもある。


また、こちらの記事も、同じような経験をしたことのある仲間のことを重ねてしまい、とても他人事とは思えない。


何度読んでも悲しさと悔しさと無念さが込み上げてくる記事である。


いずれにしても、車椅子ユーザーが知らない場所や環境に出ていく上では、健常者仕様の無数のバリヤに阻まれることをあらかじめ想定して、確実に目的を達成できるかどうか、事前に入念な下調べが必要となる。この手間と行った先で動けなくなるかもしれない恐怖はおそらく健常者には分からない。(しかもせっかく調べて信用して行っても、実際には“名ばかりバリアフリー”で、設備にしても職員の対応にしても当事者目線での想定が全くされていないということもある。)


しかし、すべて調べ尽くさなければ行きたいところに行けないというのは、かなり車椅子ユーザーにストレスと諦めを強いていることになる。もしかしたらそれでいいという人もいるのかもしれないが、思い思いの日常を普通に生きようとしている人にはある意味不要な煩わしさでもあるし、それを健常者目線で「障害者なんだから受け入れろ」と当然のことのように片付けるのはちょっと傲慢な気がする。故に、ときには信頼できる同行者(介助者)と一緒に、荒波に漕ぎ出す大胆さも必要なのである。(これはその人の心身の状況によっても一人だったり同行者がいたりさまざまだと思う。)


伊是名さんも、4月16日に現代書館が主催したオンラインの緊急トークイベント「障害者の声はワガママなの?」で、ベテランの信頼できるヘルパーが一緒だったから粘り強く交渉できたと言っていたが、未知のバリアに直面したとき、それと交渉するのに一人で声を上げるのはしんどいし勇気がいる。何故なら分からない人に分かってもらおうと訴えるのも、後ろの人を待たせたり周りの人にじろじろ見られるのも、本人にとっては大変な精神的負担を要するものだからである。


そのときに何が問題なのかを冷静に理解し、当事者の主体性を尊重し、思いに共感して、一緒におかしいと声を上げたり、粘り強く待てる存在というのは重要である。伊是名さんがいかに活動的で精神的にタフであったとしても、基本的には「普通」の人と変わりないはずだからだ。(それを考えると、そのような人を「当たり屋」とか「モンスタークレーマー」と簡単に片付けてしまうのもちょっと理解が無さ過ぎるような気がしてしまう。)


このように、一口に車椅子ユーザーといってもいろいろな人がいて、何を大変と感じるかはその人の心身の状況によってもさまざまだと思うが、いずれにしても、当事者になってみなければ分からないさまざまな苦労があることは間違いない。そして先ほど参照した記事のように、周囲の悪意の有無に限らず、これだけ不愉快で残念な思いをしてしまうことが多いからこそ、車椅子ユーザーの中には「もう人中に出ていきたくない」と思ってしまう人がいることを私たちはもっと知らなければならない。これはきっと、車椅子ユーザーだけでなく、あらゆる立場の人に通じる話だろう。


また、「そんな少数者のことなんか考える必要が無いでしょ」とか、「どうせ車椅子の人なんて来ないでしょ」という安易な発想を持つこと自体が、そうした人びとをさらに隅に追いやる空気を作り、見えなくしてしまっていることにも自覚的でなければいけない。


車椅子ユーザーの中には、行きたい場所やイベントがあっても、「どうせ自分は無理」「私はそこに行っていい人間ではない」と自制してしまう人も多い。それを「その人の判断でしょ」といって本人だけの問題にしてしまうことはいささか暴力的である。それではいろいろな人が生きているということを知る機会も他者への想像力を巡らす機会も自ら無くしてしまうことになるし、もし「そもそもそんな機会自体必要無い」と思うとしたら、それは無関心で不寛容な社会の空気を形成することに貢献し、回り回って自分自身の首を絞めることにもなるだろう。この点でも、後先考えず、ただひたすらに自分の日常を生きようと来宮駅に向かった伊是名さんは、みんなが考えるための貴重な機会を作ってくれたと言っていいと思う。



4.伊是名さんの行動の背景と当日の状況への理解


以上、今回の「乗車拒否」問題を考えるための前提となる知識と公共交通機関を利用する上での車椅子ユーザーの実感について見てきたが、これらのことを念頭に置いた上で、当日の状況と伊是名さんの行動を改めて考えてみたいと思う。細かいいきさつについては伊是名さんのブログを参照していただくことにして、ここでは僕が重要と思うポイントだけを書いていく。


まず、JRの対応について。


今回の問題については、そもそも小田原駅で行き先を申し出た段階から、JR側には連絡体制や本人への通知の面でもっと対応の仕方があったのではという指摘が出ている。駅員の応答についても、何故難しいのか、伊是名さんに対してちゃんとした説明がなされていないため、一方的な印象を受けてしまう。


もちろん、駅員的には一生懸命対応してくれていたのかもしれないが、合理的配慮を要望した当事者とJRとの間で上手く対話ができていない。さらに熱海駅の駅員が動くことになったことは本人には知らされず、あきらめて自分で何とかする結論になった。この段階で事実上の拒否であることは否めない。


また、熱海駅に着いて駅長らが待ち構えてくれていたことに伊是名さんはビックリし、最終的に駅員4人に車椅子を担いでもらって来宮駅の階段を降りたのだが、その際に「今回は特別に」と言われたことが伊是名さんの中では引っ掛かった。何故なら自分だけが特別扱いされては意味が無いからである。


僕が思うに、ここで出た「今回は特別に」の言葉は、今回の合理的配慮がJR側にとって過度な負担であったという意味ではなく、その場をとりなすために使われたエクスキューズの言葉だったのではと想像する。伊是名さんもブログで「駅長Dさんは丁寧だったけれども、車いすへの対応をしたことがないようで、まったくわかっておらず、私が質問したら、それを調べ、対応してくれる形だった」と書いていた通り、実際にはスムーズにはいかなかったが、駅員が駆け付けることも車椅子を担ぐことも当日だからといって不可能なことではなく、調整可能な範囲内での対応だったはずだからである。


これを裏付けるものとして、JRの見解が記述されている記事を2つ添付する。


■4.12配信


■4.23配信(JRの見解については末尾に記載)


JRが伊是名さんに対して反論しないのは、業務の範囲内であり、対応に不備や落ち度があったことの裏返しであるようにも読み取れる。(これを単なる“大人の対応”と言って片付ける人は、バリアフリーについて考える気も差別している自覚も無いように思われる。)ここに関しては、今回の件を機に、JRが改善に向けて真摯に取り組んでくれることを願うばかりだし、今回伊是名さんに言葉を投げかけたあらゆる人も一緒に考えてほしい課題である。


ちなみに車椅子を駅員が担ぐという行為だが、エレベーターが普及する前はこうした対応が主だったことが関係者の話や本などを読んでも分かる。(ただ、担がれる方はとても恐いので、みんながみんなそれを望むわけではない。)これまでに紹介した記事でも触れられていたように、車椅子を受け入れる環境が整っていない中でも、臆せず街に出てその存在を示し、権利を勝ち取ってきた先人たちの努力によって、現在のように駅のバリアフリー化が進んできたことは有名な話である。(この辺りは最後に紹介する関連記事の中でも触れられているのでそちらを参照してほしい。)


また、先述した僕が抗議した地方のバス会社についても、この機会(2019年9月当時)にいろいろ勉強しようと思って確認したところ、当日の電動車椅子ユーザーであっても乗車地・降車地の営業所から人を派遣するなどできる限りの対応をしますということだった。(ちなみに仲間が使っていた電動車椅子は30kgほどのものだったが、仮に100kgだったとしてもできる限り対応するとのことだった。もちろん、事前に連絡したほうがスムーズであると言われたことは言うまでもない。)


このように、公共交通機関のほうも、決して「無理です」と頭ごなしに否定することはしない。合理的配慮の要望には検討が必要であり、その検討を怠ることも差別に当たるからだ。もちろん、どうしても無理なことはあるだろう。ただそれならそれで丁寧な説明があれば伊是名さんも納得したのではと思う。


以上のことから、いろいろな背景や状況を考慮しても、今回の伊是名さんの要望が非常識だったかというとそうは思えない。そのため、伊是名さんの中でも最終的に疑問が残ってしまったのだと思う。これを健常者目線で「しょうがないでしょ」と言って済ませていたのでは物事は何も改善していかない。


何故車椅子ユーザーであることでこんなに残念で不愉快な思いをしなければならないのか。そもそも当事者目線での動線を考えたときに、ネットを含めた案内についても課題があるのではないか。そしてみんなが平等に利用するための合理的配慮が自分だけの特別な対応という駅員の理解はいかがなものなのだろうか。


こうしたことから、伊是名さんは次に自分と同じ思いをするかもしれない人のことを考えて、来宮駅だけでなく、あらゆる公共交通機関の課題について考えてもらうために、美談で終わらせるよりも問題提起をする必要があったのだと思う。そうでなければ“仕方なく協力してくれた駅員たちの思いやりの話”にすり替えられて終わりである。それでは障害者の移動・交通をめぐる権利が正しく理解されることはいつまで経ってもない。


なお、先述した僕のツイートへのリプライで、伊是名さんが不意に被った「権利を揺るがす問題」と、JRの駅員が不意に直面した「合理的配慮の準備ができていないことの戸惑い」を同一線上で捉えて互いがフェアであるような言い方をする人がいるが、僕は人の権利と企業の応対品質は別次元の問題と考えている。


実際にJRは戸惑って大変な思いをしたかもしれないが、それは企業や社会が成熟するためには必要な戸惑いである。一方で、伊是名さんが直面した権利を揺るがす問題は、本来無い方が良い。それにも関わらず直面したということは、それだけ私たちの社会が成熟していないということになる。(もちろん、一気に成熟などできるはずがないし、現場の職員さんたちも日々がんばっているのは間違いないと思う。)


いずれにしても、社会が成熟するためにはどうすればいいのかということは、伊是名さんも常に真剣に考えているはずであり、それをブログを通して発信し、同時にメディアを通して広く訴えようとした。それは誰かを責めたり攻撃するための行動ではなく、社会がより良くなることを願っての行動である。


なお、伊是名さんが今年の2月に社会民主党の常任幹事に就任していることから、政治目的でわざとやったのだろうという陰謀論も出ているが、ご本人もそれは否定しているし、僕も伊是名さんのお人柄や背景を考えるとこれが自然な方なんだろうと思う。(ある意味では貴重な存在だと思う。)そのため、僕はごく単純に、伊是名さんの生活に根差した行動として今回の問題を考えることにする。



5.伊是名さんの発信の本来の意図と今回の炎上を考える


こうして4月4日のブログが更新されたのではと想像する。正直、僕が最初にブログを読んだ段階では、身内向けというか、共感してくれる人向けに書かれたのかなという印象を受けたのは否めない。先にも書いたが、悪く言えば直感的で無防備で危なっかしいという印象である。(個人的な話になるが、僕だったら同じ問題提起の仕方をするにしても、もう少し別な手順や書き方を選んだかもしれないと思うところはある。)そして、これが本人の予想を超えて多くの人の目に留まることになった。


タイトルの「乗車拒否」については、伊是名さんのことやいろんな背景や状況を知らない人にしてみれば、センセーショナルに見える気持ちも分からなくはない。JRの肩を持つ人からすれば、「日々真面目に働いている人が何故叩かれなければならないのか」と自己を投影して怒りを感じてしまうところもあるのだろう。(そこにはおそらく、「あなたのような車椅子の人が当日来ることはJRの人だって想定していないんだから、忙しい中急な調整を強いられて可哀そうだ」という被害者意識も投影していると思う。)


そうだとしても、今回の件はまた別次元の権利の問題なので、どうか想像力を働かせていただけないだろうかと切に願う。自分たちが全く気付かないところで、圧倒的に不利益を被り続けながら生きてきた人たちのことを考えれば、伊是名さんの気持ちも分かるし、「乗車拒否」と書いて問題提起したくなる気持ちも分かる。そもそもそれは嘘ではなく、事実上の拒否であるし、最後の駅員さんの対応も、残念なことにその疑問を払拭するものにはならなかったのだから。


しかし今回は、多くの人にその意図を想像させるような社会的素地も無く、結果的にはこの「乗車拒否」が賛否別れる絶妙なボーダーラインを引くことになった。そして伊是名さんがこれまでの人生の中で培った信念と闘いの流儀が、それとは合わない、普段社会の常識の中で自分を抑えながら生きている人びとの歪んだ“正義”を刺激し、悪い方向に転がってしまったのだと思う。その結果、そうした人たちが前提となる知識や正確な情報を得ないままに、伊是名さんを単純なアイコンと化し、正すべき標的と定め、現在の状況が作られたと僕は見ている。


さらにこれが個人の好き嫌いという生理的な感情と結び付いて、事態をより深刻化している気がするのだが、プロセスはどうであれ、思い込みや誤解に基づく批判や非難は見直されるべきだし、誹謗中傷などは絶対にあってはならないことである。


そしてネットでの炎上を受けて、伊是名さんは4月7日にもう一度ブログを更新して詳細を書いている。これはアンチも想定した外向けに書かれ、僕は必要なことはここで十分説明されていると感じた。とりあえずまだ読んでいない人はご一読されると良いかと思う。


このブログの中で伊是名さんは「駅員にはありがたいし、重い車椅子を持ってもらって申し訳ない」と書かれている。これは単なるエクスキューズではないだろう。また末尾では「合理的配慮を広めるための私のとった行動が、まだまだ不十分であったり、他の方法もあるとは思います」とも書かれている。


すでにご本人の口から感謝の言葉が出て、方法についても見直しがされている。それにも関わらず炎上は止むどころか、非難を通り越してさらなる人格否定、誹謗中傷に発展し、ご本人の過去の発信を悪意を持って編集した動画や、外見や障害を揶揄したひどい画像や言論も出回っている。これらは断じて許されるべきではない。


どんな人であれ、人の人生を他人が弄ぶことなどあってはならない。これが仮にさまざまなリスクをある程度覚悟している芸能人や著名人であったとしても、世間の風当たりの冷たさは心身に堪えるだろうし、電話での攻撃や個人情報の晒し上げは恐怖でしかない。そんな人間不信になるレベルの脅威を周りが「気にするな」と言っても土台無理な話である。第一、もし仮に伊是名さんに落ち度があったとしても、人を攻撃する権利など誰にも無い。


そして明るく大胆に見える伊是名さんの笑顔の裏には、おそらく周りが容易に想像もできないほど大変なことがこれまでにたくさんあったのではと思う。本来であれば人の手を借りず、自分のことは自分でやりたいと思いながらも、思うようにそれができない悔しさともどかしさ。生きるために、自分にはどうしようもないことを周りの人に頼み、それが叶わない場合の失望と恐怖。


伊是名さんはある程度乗り越えた人かもしれないが、それを24時間、365日、突き付けられることの無念さを考えたことがあるだろうか。その上で人や制度に頼るまでに、その人の中でどれほどの葛藤があることか。(これはあくまで僕の想像であり、安易に代弁してはいけないところだが、介護の現場では、それが障害者であっても高齢者であっても、介護を受ける上での葛藤を抱えている人は少なからずいる。)さらにそうした悔しさや無念さや葛藤を理解する気もなく、周囲が当たり前のように押し付けてくる感謝がどれだけ当事者の思いを置き去りにした独り善がりなものか。


そこには選んで病気の体になったわけではないという思いと、それを受け入れて自分らしく生きようという思いと両方あるのではと思う。この社会で障害とともに生きるということに常に向き合わされながら、同じ立場を強いられている仲間たちのためにできる範囲で理解を広めていこうという矜持もあるだろう。ご本人が過去に自ら書かれていたように、本当ならばそんなにがんばらなくてもいいはずなのである。しかし当事者自身ががんばらないと変わっていかない現実の中で、それでも仲間たちのために必死に声を上げて社会への願いを捨てずにいるのである。


その繊細で複雑なその人の「尊厳」に関わる大事な部分は、僕も含め、誰も簡単に理解したつもりになってはいけない。ましてや誹謗中傷のように、短絡的にアイコン化してネタにし、搾取し、集団で尊厳を奪うような暴力は絶対にあってはならない。


伊是名さんの声を押し潰し、イメージを剥奪し、その人がその人として生きることを阻害する現在の状況は、将来にわたって人の尊厳を傷付け続ける殺人的な行為である。おもしろければいいというものではない。匿名だから許されるというものでもない。そして自分の満足のために人の人生があるのではない。これまでの自分の言論はどうであったか、一度各々が見直す必要があるのではないか。



6.ネット社会の“集団的アイコン化”から人の尊厳を守るために


僕は手間暇かかるドキュメンタリー映画というものを作ることを一応の生業としているが、人を表現するとき、どれほど誠実に向き合って丁寧にその人を描いたつもりでも、作られたイメージとのズレでその人を苦しめてしまうことがある。好意的な場合でもその可能性があるのに、それがその人を全く理解しようとする気のない、明らかな悪意(善意と表裏一体)を持った無数の人たちによるものだとしたらどうだろうか。


外見からは分かりにくいが、車椅子ユーザーの中には進行性の難病を持つ人もいる。体が動かなくなるだけでなく、意志表示や意思疎通も難しくなるかもしれない中で、自分の手も声も届かないところで無理解に勝手なイメージが作られ、それが広められることがどれほど苦しいことか。車椅子ユーザーや難病の人だけではない。ものすごいものを抱えながら日々生きている人たちのことをもっと想像してみてほしい。


誤解の無いように断っておくと、「批判するな」と言いたいわけでは決してない。しかし伊是名さんに押し寄せる、自分を正しいと信じて疑わない人たちの無数の剥き出しの“善意”は、一定の人に「やっぱりこんな社会で生きていきたくない」と思わせるには十分なほど暴力的である。僕はこの状況に対して、みんなで考え、改善する方法を模索したい。


今回の伊是名さんの炎上は、SNSを中心としたネット社会の群衆が生み出したものである。そこにおそらくは収入目当てのユーチューバーが便乗し、キャッチーなサムネイルとタイトルによって「この人は叩いて大丈夫な人」という見え方を作り、広めるのに貢献している。そして思考停止した人びとが単なる享楽のために生み出す負の相乗効果によって、本来豊かであるはずの一人の人のイメージが単純でネガティブなものに固定され、結果その人の尊厳が奪われてしまうような状況を、僕は個人の誹謗中傷とは別に“集団的アイコン化”と呼んでみた。発信したい人が幅を利かせ、それ以外の人は沈黙するというネット社会が持つ特徴として、同様のことは今後も起こり続けるであろう。


ネットは依存性が高く、その構造からも情報の受け取り方に偏りが生じるため、正しい情報に触れない人にしてみれば、そこで触れ続ける偏った情報は思考や行動をも左右する。バズればいいとかおもしろければいいというのは決して正しさの基準にはならない。実際に発信している人が仮に少数だったとしても、この短絡化が当たり前のようにネット上を埋め尽くし、何となくそれに賛同してしまいそうな空気を作り出して、結果本質とは程遠い情報だけがネット上に残ってしまうことを僕は危惧している。それがいかにも正しいことのような様相で子どもたちの目に触れるとしたらなんと不幸なことか。いっぱしの大人でさえ思考停止の誘惑にはなかなか勝てないのだから、子どもへの悪影響はかなり大きいだろう。そうして今回と同様のことが繰り返されていくとしたら世も末である。


そもそも開かれた場で、人のことを自分と同じ人間であるということも忘れて、空気を吸うように当たり前に誹謗中傷が行われるというのも大分不健全な話である。それが何となくの軽いお遊び的な気持ちだとしても、粘着されて誹謗中傷される人の精神的ダメージは計り知れないわけで、タダで済む話ではない。義務教育レベルも含めて、こういうことを生み出す構造自体も考えなければならないのではないか。


やり方は見直しの余地があったかもしれないけど、誰かを責めることが目的ではなく、社会全体がより良くなることを願って動いて苦しむ人と、やり方が気に入らなくてそれを正すために個人を攻撃して罵詈雑言を浴びせて自分がすっきりして満足したいだけの(ようにしか見えない)人たち。


起こったことは起こったこととして、自分はどの立場からものを考えるのか。前にも書いたとおり、多数の意見がそのまま正しさのように見えてしまわないように、それが大事なことを押しやって見えなくしてしまわないように、そしてイメージの剥奪という暴力に抗うために、この状況になんとか楔を打とうと文章を書いてみた。


僕の場合、自分にとってもっとも身近な仲間が難病患者になり、障害者になり、車椅子ユーザーになったことがとても大きく、本人が抱えている生き辛さや社会への疑問や日々感じていることを僕も学ばせてもらうことによって、伊是名さんの行動への想像力をより巡らすことができた。


それまでの僕は、ドキュメンタリーを作っているのに社会問題にあまり関心が無く、社会を変えるために声を上げる人に対して「むしろあなたのほうが物事を単純化して決め付けてやしないか」と冷ややかな目で見る人間ですらあった。そんな偏見が少しずつ変わり、やがてあらゆる問題が根底でつながっていて、自分と無関係なことなど一つもないと思えるようになったのは、一重に仲間のおかげでもある。


僕にとってはその仲間との個別具体的な関わり(摩擦や衝突や葛藤を含めた全人的な関わり合い)はとても大事な意味を持つが、みんながみんな、そのような「自分が気付くことの無かった世界の見方・感じ方を教えてくれる人」が身近にいるとは限らない。


そうなると、そのような人が身近にいる人はラッキーで、いない人はアンラッキーという議論になりそうだが、それならそれで、今回の炎上が、逆に一人の人をちゃんと知ろうとするきっかけになればいいのではと思う。思い込みや安易な短絡化を抜きに、そこから何か大切なことを発見する機会になるといいのではと思う。その上で、「やっぱり自分の考えはちょっと違うかな」となればそれはそれでいいと思う。まずは知ることがなければ想像することもできないのだから。


かく言う僕も、そもそも伊是名さんの本すら読んでいないような状態で(これから読もうと思っていますが)、これまで書いてきたことも自分勝手な想像によるところが大きい。ある意味では危険な思い込みと変わらないのかもしれないが、ほとんどの人が同じ前提で発信していると思うので、僕もあえてそうすることにした。理解不足のところも多いかもしれないし、(あくまで僕から見ての)誤解や無理解や偏見に基づく意見に対するアンチテーゼの面も強いかもしれないが、この状況から伊是名さんを守りたいという思いと、同じようにこの状況がしんど過ぎて何も言えなくなっている当事者のために、自分にできることをしたいという思いから書いた文章として、ご容赦いただけたら幸いである。


以下、今回の件を考える上でとても参考になる記事として、伊是名さんを擁護する立場から書かれたものをいくつか紹介しておく。


■4.9配信


■4.12配信


■4.12配信


■4.15配信


■4.18配信


■4.29配信


最後に、伊是名さんが伊是名さんらしさを取り戻せる社会であることを願って、この文章を発信します。



【参考】
なお、この文章を書く過程で参考にした本によると、物事をしっかり考えるための批判とは別に、正義感からわざわざ進んで誰かを非難する極端な人の存在について、さまざまな分野で研究が進んでいるようである。
例えば脳科学の分野では、正義感から人をバッシングすることで、快楽物質のドーパミンが出ることが解明されているようで、これには中毒性があることも指摘されている。
またネット炎上の研究では、いかにも無数の人がバッシングをしているように見える状況について、実はごく数名の人が大量のバッシングを行い、そのような見え方を作っている場合が多いことも分かっている。そしてこうした極端な人が生み出す状況への対策などについても考察が進んでいる。
いずれも非常に興味深く、ちゃんと勉強するとまた論点が変わってくるのかもしれないが、今回は自分が本来伝えたかった内容に重点を置くことにした。しかしこのテーマについては引き続き勉強していきたいと思う。


7.補足


※以下の文章は僕が4月12日に自身のフェイスブックに投稿した文章を転載したものです。


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伊是名夏子さんの車椅子乗車拒否の件について、一番の問題は、今回の伊是名さんのようなことが起こり得るということが全く想定されず、対処できる状態にもなっていないという状況が誰の気にも留められず放置されてしまっていることなのだろうと思う。これは広く言うとJRだけの問題ではない。多くの人が「だって想定できなかったもんはしょうがないでしょ」ときっと心の中で思っている。


悪気はなかったとしても殴られたほうは痛い。これが本当に想定されていなかったのだとしたら、自分たちがぶんぶん振り回してるバットにぶつからないように、あえてそこを避ける人がたくさんいて、その結果問題が起こらなかっただけなのだということを自分たちは知らないといけない。つまり無自覚に人の権利を阻害していること、無知が故の害悪について。


にも関わらず、伊是名さんに対するツイッターの反応を見ると、「痛がっているあんたがおかしい」「そこにいるほうが悪い」「ぶつかったほうに問題があるのでは」と言わんばかりのコメントが溢れている。その多くは、文体から察するに、「何故声を上げたのだろう」という当事者の思いを知ろうとする姿勢が感じられない。伊是名さんの言い方、やり方の問題にすり替えて批判する人たちは、そこに心から関心が無いのだろうなと思う。そうして「何故声を上げたのか」というところは無視されたままになる。(同じようなことがいつもどこかで形を変えて繰り返されている。)


ちなみに「どうしてもっと入念な下調べをしないの?」「何故今そこまでこだわる必要があるの?」「必要以上の負担をかけ過ぎじゃない?」と思う人もいるかもしれない。その気持ちも分からなくはない。しかし伊是名さんにしてみれば、今回のような不当な対応に直面したことは準備しようとしまいとこれまでにもたくさんあったはずで(しかも現場の職員によって対応が全然違ったりすることもある)、その度に何とかしなければと思いながらも必死に声を上げるのはしんどいし疲れるし、こんなことに気力や時間を使うのももったいないしで、まあいいやと自分を納得させながらその場をやり過ごしたりモヤモヤしながら諦めることもたくさんあったのではと想像する。そうして人知れず我慢していることのほうが圧倒的に多いはずなのだ(その点では当事者のほうがずっと寛容じゃないか)。


しかしこの先自分と同じ思いをするかもしれない人たちのことを考えたら絶対に引いてはいけないときもある。そしてそういうタイミングはいつ訪れるか分からない。だから今回もその1回なのかもしれない。(これは僕の個人的経験による想像です。)


JRは仕事上まだ柔らかい態度だと思うが、もっと直接的な表現や態度で差別されることもある。自分がそこにいてはいけない人間であるかのように、自分という存在が社会の中で全く想定されていないことを突き付けられた側にしてみれば、不愉快で悔しくて涙を流すことだってある。(僕自身はその気持ちは本当には分からないけど、当事者から聞いた話として書いています。)何も喉に通らないこともあるかもしれないし、眠れないことだってあるかもしれない。そのモヤモヤはずっと引きずる。


その苦しさに比べたら、批判する人や誹謗中傷する人にはなんか苦しいことはあるのでしょうか。それよりもその苦しさを当事者だけに押し付けないで、少しでも改善するための方法を論じたらどうだろうか。(実際、伊是名さんのアクションのおかげで変わっていくこともあるだろう。)当事者の周りにいる人だけに任せていればいいという問題ではない。それでは結局障害者の権利については可視化されないままだし、想定されないことが変わることもない。もっと言うと、障害者はある文脈で不利益を被って生きにくいだけなのに、常に弱くかわいそうな人として見なされることも変わらないだろうし、そうした人たちに「優しい私たちが施してあげる」「だから感謝を忘れないように」という健常者の心の奥底にある優越意識も変わらない。その結果、「障害者が声を上げるのはわがまま」という考えを疑問視する機会も無くなってしまうのだろう。伊是名さんのアクションは、その上でのアクションなんだということを理解する必要がある。そのときに周りが取るべき態度は批判や誹謗中傷ではないはずだ。


声を上げるやつのほうがはしたない。大人の自分が正してやる。どうもそんな感情が見え隠れする。(もちろん、自分の中にもそういう感情があることは否定できない。)でも、「何故声を上げたのか」というところをもっと考える必要があるように思う。マジョリティとは気付かないでいられる特権とも安心していたい人たちとも言われる。つまりは、ある部分において知る気も考える気も無い人たちとも言える。(もちろん、自分もいろいろな場面でそれに加担していることは否定できない。)でもそれが大事なことを押しやって見えなくしてしまわないように、多数の意見が「正しさ」なのだと見えてしまわないように、自分はこう思いますということは表明しておこうと思います。理解不足かもしれませんし、自分勝手な話ではありますが。

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