僕は自身の映画制作以外にいくつかの活動に関わっているが、そのうち、力を入れているものの一つに「みやぎシネマクラドル」という会がある。
■みやぎシネマクラドル
みやぎシネマクラドルは、主に宮城県を拠点に映像制作をしている人と、地元の作り手の活動に関心を持ち、応援してくれる人たちが繋がり、支え合うためのコミュニティとして2015年4月に始まった。発起人かつ代表は僕である。
立ち上げ当時の僕は、長編第1作である『波伝谷に生きる人びと』を地元で広めて、これから全国で劇場公開していくというところで、その過程でさまざまな人と出会い、自分自身今後地元でどのようなことができるのだろうかということを考える機会が多かった。それまで6年間ずっと一人で悶々と制作してきた人間が、ようやく完成させた作品を多くの人に受け入れてもらい、人と繋がる喜びを実感してしまったのだから、そういう考えになったのもある意味自然なことと言える。
過去のブログでも書いた通り、そもそも僕は映画の学校や映像の学科といった専門的なところで学んだ人間ではない。そのため、震災前に波伝谷で撮影していた当時は、映像の下積みも人脈も何も無かった。
そんな人間が、無謀にもただ「伝えたい」という一心だけで、大学卒業と同時に長編ドキュメンタリー映画の制作を始めてしまったものだから、当然、自分の力量にすぐ限界を感じ、悩みながら制作を続けてきた。そんなときに、「自分の悩みを分かち合えるような作り手の仲間が身近にいたら」と何度思ったか分からない。
それでもさまざまな人の助けをいただいて、何とか映画が完成し、さまざまな映画祭で上映される機会をいただいた。その過程で、ご一緒した監督と熱く語り合う中で、「宮城にこういう作り手がいるから、会ってみたら?」と助言をいただき、自分の知らないところで、自分と同じように、悩みながらドキュメンタリーを作っている若い作り手がいるということを初めて知ることになった。そのときに感じた新鮮さと心強さは今でも覚えている。
さらに、当時は震災があってさまざまな作り手が宮城に拠点を移して活動していたので、映画を広める過程でそうした作り手との接点も増えていった。また、当時の被災地はある意味でメディアや表現の最先端地域でもあったので、東京のような大きな都市ではなく、地方で根を張って表現活動を続けることの意義についても注目されているような状況だった。
それならば、宮城を拠点に、悩みながら活動を続けているそれぞれの作り手が、互いに交流し、情報交換し、切磋琢磨するための場を作ることができないだろうか。それを作り手だけでやっても広がりが無いから、自分たちのような何の後ろ盾も無い若い作り手の志や活動を理解し、応援してくれる人たちの協力を得て、一緒に横の繋がりを作っていくことはできないだろうか…。
そんな思いから、宮城で映画を広めるのに協力してくれた「i-くさのねプロジェクト」の砂子啓子さん(震災後、被災地で活動する団体や地域コミュニティを積極的に応援してきた方)に相談し、「是非力になりたい」と言っていただき、また自分が繋がった作り手に声をかけ、賛同していただき、作り手と市民が共同でネットワークを広げるための会を立ち上げることになった。
そして立ち上げ当時は共同代表であった砂子さん(現在は副代表の一人)が、子育てする女性のネットワークと深く繋がっていたものだから、「普段忙しくて映画を観る機会のない女性にも、地元の作り手の活動を知ってもらえるように」ということで、団体名は柔らかい名称がいいなと思い、「ゆりかご」を意味する「cradle」と「宮城」をくっつけ、「みやぎシネマクラドル」という名称に決めた。(ただし、自分で提案しながら、のちに外部の人から「cradle」の発音は「クラドル」ではなく「クレイドル」では?と指摘されるまで誰も間違いに気付かなかった。)
そのような経緯で立ち上げたみやぎシネマクラドルは、会員同士で交流するだけでなく、定期的に何かをやっていこうということで、「せんだいメディアテーク」との共同事業として「映像サロン」という公開イベント(無料)を不定期で開催していくことになる。そして2023年8月現在で18回開催した今日まで、これがみやぎシネマクラドルの活動の大きな軸となっている。
この映像サロンでは、「映像を通して参加者が対話し、ともに学び合うための開かれた場を作る」という目的のもと、主に2種類の上映会を行っている。その2種類というのは、①「あるテーマについて、会員作品(すでに完成された作品)の上映を通して参加者が意見を交わし、考えを深めるもの」と、②「会員の制作途上の作品について参加者が意見を出し合い、制作者にフィードバックするもの」の2種類である。
作り手は、発表の際にこのどちらかを選択することになる。(両方を選択する人もいる。)そして、映像に映る登場人物の姿や発表者の言葉を通して、参加者は人や社会、表現のありようなど、さまざまなことを考え、語り合う。(ちなみに②については、完成前とはいえ人前に出すので、出演者の許可を得た上で行っている。)
今のところ開催頻度としては①のほうが多く、劇場公開されていない作品など、普段上映されることの無い作品を上映して語り合う機会というのは、作り手にとっても参加者にとっても貴重な機会となる。
ただ、どちらかといえば②のほうが、普段一人で制作している作り手にとっては切実な印象を受ける。というのは、これは多くの作り手が経験していることだと思うが、自分一人で映画を編集するということにはどうしても限界があり、そこには信頼できる他者の視点が絶対に必要になるからである。(作り手によっては、そもそもどのような方向性で作品を編集していけば良いのか本人も分からず困っているという場合もあれば、逆に自分では上手く編集できていると思い込んでいたものが、いざ人に観てもらったら全然意図が伝わらないという場合も往々にしてあるのである。)
そんなとき、誰かの助けを必要としている作り手に対して、作品をより良くするための意見交換の場を作るのが、この映像サロンの重要な役割でもある。
そこでは、発表者に対して敬意を示した上で、参加者それぞれが自身の知見や経験をもとに本音の意見を交わし合う。その意見は、単に編集の良し悪しだけではなく、そもそもの作り手の生き方や対象との向き合い方、物事を見つめる姿勢といった根本的なところまで問うものだから、当然それを受け止める発表者のほうも、自分の根幹となる部分を激しく揺すぶられてなかなかしんどい思いをすることになる。
とはいえ、中傷的なものでない限り、発表者に遠慮して本音を隠すのは失礼だし、それでは誰のためにもならないので、作品がより望ましい形で生まれるように、みんなが期待を込めて自分にできる精一杯のアドバイスを提供するのである。
そうして交わされた意見の中から、発表者は自分なりのヒントを得、他の作り手も、発表者を鏡として自分自身の制作のあり方を見つめ直すことになる。そして普段映像を作る機会の無い参加者も、一鑑賞者としての率直な意見を述べながら、そうして真摯に作品制作に取り組む作り手の姿を温かく見守る。
こうしてみんなが自分自身の言葉で真剣に向き合い、映像を通して大切なことを確認し合うからこそ、イベント後の懇親会で呑むお酒は格別に美味しくなるのである。(ただし、過去には議論がヒートアップし過ぎて反省が必要なことも多々あったが。)
このような場づくりを、さまざまな立場の人が一緒になって続けてきた。
その中で大きな転機となったのが、2021年2月に開催した「震災10年特別上映企画―10年後のまなざし―」である。
この企画では、「震災10年を迎えるに当たり、地元宮城のみなさんとともに10年という時間について考えたい」という趣旨のもと、この企画のために4人の作り手が作ったオムニバス映画『10年後のまなざし』を上映し、シンポジウムを行った。会場は同じせんだいメディアテークだが、普段の映像サロンの会場とは別のシアターで開催した特別企画である。
実は、この企画から遡って2年ほど前から、会員の中から「震災10年を迎えるに当たって、地元の映像の団体として何かできることはないだろうか」という声が上がっていた。当然、会には作り手がたくさん在籍しているものだから、「それならば会員それぞれが震災をテーマとした作品を作り、それをオムニバスとして上映するのがいいのでは」という案が出るまでさほど時間はかからなかった。
しかし、実際に動き出してみると、多くの難しさに直面した。団体として作るオムニバス映画なのだから、一人でも多くの作り手に参加してもらいたいという気持ちがある一方で、震災というテーマがあまりにセンシティブなものを内包している以上、何でもいいというわけにはいかない。当然、今まで震災について表現という形で向き合ってこなかった作り手にとっては、あまりにもハードルが高過ぎる。
しかも、震災10年という時間は世の中が勝手に作っている節目であって、震災で大切な人を失った人などは、未だにあの日から時間が止まったままの人もいる。そうした人たちの中には、震災10年というニュースやそれに関するイベントの情報に触れるだけでも苦しくなってしまう人もいる。
地元にいて、被災地の現状を見ている立場として、そういう人たちがいるということを知りながら、この機会に間に合わせるように作品を作るというのも、どこか暴力的になってしまわないだろうか…。そんな心配が頭を横切った。
「一つやり方を間違えれば、自分たちの自己実現のために、震災を利用することになってしまうのではないか…。」
「一方で、震災を表現し続けてきた作り手が多く在籍しているこの会だからこそ、それぞれの現在地からまとまって伝えられることもあるのではないか…。」
はじめのうちは、それぞれの会員の考えにも相違があってなかなか方向性がまとまらず、自分自身の生活や別の長編映画の制作がありながら、それらを調整したりさまざまな課題に取り組んだりするのもなかなかしんどかった。しかも代表である以上、最終的には自分の判断や良識が求められることになる。
ただ幸いだったのは、当時は世の中がコロナ禍に突入したこともあり、みんなZoom等のリモートの手段に慣れていたことだった。当時、僕はすでに宮城から拠点を東京に移していて、映像サロンの開催頻度も少なくなっていたのだが、この震災10年企画の準備を機に、何度もZoomでミーティングを行い、逆に前以上にそれぞれの会員が会の運営に密に関わるようになっていった。
そうして会員の助言を得ながら、みんなにアンケートを取るなどして、どのような目的で、どのようなプログラムを組むべきか、何度も議論を重ね、最終的な枠組みが出来上がった。その過程で、考え方が合わず距離ができてしまった会員や、悩み抜いた末にオムニバス作品への参加を断念した作り手もたくさんいたが、最終的に4人の作り手(村上浩康監督・山田徹監督・海子揮一監督・僕)が作品を作り、何とか企画を実現できる見通しが立った。
ただ、当時は東京に緊急事態宣言が出て、会場のせんだいメディアテークの規定により、僕をはじめとした東京の会員がリモート参加になったり、会場の参加者の飛沫防止のため、質問は紙に書いてもらうことになったり等さまざまな制約が出たのだが、そうした制約もみんなの協力で何とか乗り切って、無事に満員の参加者とともに会をやり遂げることができた。そしてありがたいことに、アンケートでは多くの参加者がみやぎシネマクラドルと今回の企画に対して好意的なことを書いてくれていたのが嬉しかった。
こうして、震災10年企画を機に、自分たちが地元でやるべきことがより鮮明になっていったのである。
また、あくまで今回の企画のために制作したオムニバス映画『10年後のまなざし』も、想定外なことに、その後2021年10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭(オンライン開催)で上映され、その後も東京でも何度か上映されることになった。そして上映の度に、4人の作り手が集まって舞台挨拶し、観客や主催者の感想を聞きながら、自分たちの作品の意義や会そのものの意義を改めて再確認することになった。
今まではせんだいメディアテーク内で映像サロンを開いていただけだったので、そうして外部の視点に触れることはとても新鮮なことだった。それによって会を続けるモチベーションが上がったところもあるので、これは自分たちにとってとてもありがたいご褒美だったと言って良い。こうして上映で繋がっていった人たちとのご縁は、今後も大事にしていきたいと考えている。
以上のような経過を辿りながら、みやぎシネマクラドルは今も定期的にオンラインでのミーティングを重ね、オフラインでの映像サロンを続けながら、ちょっとずつでも、何か新しいことができないかを模索しているところでもある。共通の目標を設定して、それに向かって一緒に取り組める仲間がいるというのは、とても幸せなことだし心強い。
もちろん、会を続ける中で、常にみんなと親しくしているというわけではないし、辞めて行った人もたくさんいる。8年以上続けていれば、それぞれに変化があるし、僕自身、一人一人の活動のすべてを追えているというわけでは決してない。
ただ、一面的な付き合いではあっても、必要としてくれる人の拠り所になっている面は間違いなくあるし、そうして参加してくれている人がいる限り、僕はこの活動を続けていきたいと思っている。何より、僕自身が励みになっている面がとても大きいし、この活動を通してやりたいことがたくさんある。
その中で、これまでもそうであったように、かつての自分のような作り手と出会う機会がまた訪れるに違いにない。
そうして、映像を通してたくさんの人と連帯しながら、人の生き方や社会について、そして表現のあり方について考えるための場を、これからも作り続けていきたい。
また「ゆりかご」という名称にあるように、そこでの交流と対話を通して、次世代の作り手や宮城の豊かな映像文化を育むことに微力ながら貢献していきたい。
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