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執筆者の写真Kazuki AGATSUMA

僕の人生の中での『波伝谷に生きる人びと』

前回の投稿で、僕が震災前から宮城県南三陸町の漁村「波伝谷(はでんや)」で続けてきた映像記録と、そこで作られた2つのドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』『願いと揺らぎ』についてご紹介させていただきました。


このうち、僕のデビュー作である『波伝谷に生きる人びと』(2014年/135分)は、地方の農山漁村コミュニティに生きる人びとの普遍的な姿を描いた映画であると同時に、津波で被災した沿岸部にかつてどのような人の営みがあったのかを生き生きと伝える世界でも稀有な映像です。


■『波伝谷に生きる人びと』


そしてこの映画の撮影・編集をしていた2008年3月から2013年12月の約6年間は、人生で一番物事が進まない非常に苦しい時期でした。それでも、「お世話になった波伝谷の人たちのためにも、世の中に堂々と胸を張って発表できる作品を作る」という気持ちだけを頼りに、自問自答を繰り返しながら製作を続けました。


だからこそ、映画を完成させてからは人に観ていただくのが何よりの喜びであり、止まっていた時間が一気に動き出して、それまでの孤独からは一転して多くの人に支えられ、「自分は一人ではない」と思えるようになりました。今思い出しても、2014年の夏に地元で展開した宮城県沿岸部縦断上映会など、この映画の上映のために仲間たちと奔走した時間は幸福な思い出でいっぱいです。


しかし、2014年の完成作品であるこの映画が描いているのはあくまで震災までであり、それ以降も続いている波伝谷の人たちの生活や苦悩を伝えられるものではなく、僕自身、映画を上映する度に観客から「波伝谷の人たちの震災後が気になる」「続編が観たい」と言われることに申し訳なさを感じていました。そして、それを映画として形にするまでは震災後のことを何も語ることができず、震災後の現在に自分自身が追い付いていないことへのジレンマをずっと抱えていました。(そのジレンマについては、のちに続編の『願いと揺らぎ』ですべてをさらけ出したことで一つの決着を付けることができました。)


以下の文章は、そんなジレンマを抱えながらも、震災前の人の営みをしっかり伝えたいとの思いから、2015年8月以降全国8館での劇場公開を実現し(自主上映会などを含めると全国20ほどの都道府県で上映されています)、その際に作ったパンフレットに掲載した「あとがき」をそのまま転載したものです。当時の自分の葛藤を記録した文章として、こちらにも掲載しておきます。


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あとがき


 『波伝谷に生きる人びと』の完成披露上映会を昨年(2014年)1月に南三陸町で行ってから大分経つ。当時はこの映画をどうやって世の中に広めたらいいものか、分からないことだらけだった。しかし埋もれさせてはいけないという思いが僕をさまざまなアクションに駆り立てた。そうして作品が人と出会うことによって、作品そのものは何も変わらないのだけど、より作品について、自分自身について、考える機会が多くなったような気がする。


 中でもとくに印象深いのが、ある映画祭の懇親会の席で、ある大先輩の映画監督と交わした会話である。三次会も半ばという時間帯で、お互い大分お酒が入った状態での会話だったのだが、その映画監督は、134分の作品中、たった5分ほどの震災のシーンの意味を噛み砕くように、「震災がなければ映画をどう終わらせたのか」と尋ねてきた。それに対し、僕は「震災があったから映画を終わらせることができたんです」と答えた。そして次にその映画監督の口から出た言葉は、僕にとって不意打ちにも近いものだった。


 「我妻くん、だとしたら君は間違っている。自分がずっとこだわってきたことに向き合い切れなくて、震災があって映画を終われたんだとしたら、それはただの逃げだよ。卑怯だよ。震災を利用している。君がどれだけ大変だったかは映画を観れば分かるよ。でももう一度考え直した方がいい。これからの自分がどうこうでなくて、この映画のために。」


 その言葉に、僕は全身全霊をかけて作品に込めたはずの自分の信念が根本から覆されたような気がした。それまでは、人に何を言われても喧嘩できる自信があった。何故なら、自分がこの映画でやりたかったことは、何一つ変えていなかったからである。しかし自分の至らなさを隠すために、作品を作品としてまとめ上げるために一生懸命覆っていた布が、その一言で引き剥がされたような気がした。それ以来、上映後のあいさつで、自分が作った作品についてどう語ったら良いのか、分からなくなる時期が続いた。


 震災が無ければ映画はどんな終わりを迎えていたのか―。これまでの編集の過程から、その形を想像することはできる。一方で、震災が起き、ここで映画が終われると思ったのもまた紛れもない事実であった。というのも、震災前の自分は映画をどう終わらせればいいのか分からないまま、生霊のように波伝谷を彷徨い続けていたのである。そしてその一番の要因は、自分が傷つくのを恐れて波伝谷の人にぶつかり切れないという、自分自身の弱さにあった。震災後に「またすぐ戻ってきます」と言い残しながら波伝谷に戻れなかったのも、結局は表現者としての覚悟が足りないばかりに、自分の中で、それまで6年間交流を続けてきた波伝谷の人たちとの関わり方をすっかり見失ってしまったからである。これまでのあゆみを振り返れば分かるように、実際にはその後に続く苦悩や葛藤があるわけだけど、それらに「映画」という形で向き合い切れないまま、全て捨て去り、一方ではその弱さを「映画」というオブラートで綺麗に包み込み、一つの区切りとしたのが今回の作品なのだ。だからこそ、前述した映画監督の言葉は、この作品の本質を根本から問い直すメスのように、僕の胸を深く切り裂いた。


 それでも僕は一度出した自分の答えを変えようとは思わなかった。誰に何と言われようと、僕は僕なりに、震災前の映像と精一杯向き合った結果がこの映画なのだ。


 もちろん、震災後も悩みながら撮影を続けた。けれど震災前に自分が撮り続けてきた映像と、震災後のそれではもはや質が違う。自分の中で震災後の波伝谷を撮り切ったという実感がない以上、二つの時間を同等のものとして扱うことなど到底できない。それよりもまず自分がしなければならなかったのは、震災前に自分がずっとやろうとしてきたことを、ちゃんと納得のいく形で仕上げること。それこそが今の自分にとって一番切実な問題であり、震災前の映像に対する僕なりの誠実さであった。


 一方で、映画は震災に向かう以外の終わり方を見つけることはできなかった。何故なら、波伝谷の人たちは、震災を経て今も生き続けている。津波でみんないなくなってしまったわけじゃない。その現実に対して、あの日そこで被災した僕自身はどう関わって行けば良いのか。震災が僕自身の経験として大きな出来事としてある以上、震災前の映像だけで、過去を美化して映画を終わらせることはどうしてもできなかった。つまり映画としては一つの区切りをつけられたというだけであって、現実には僕と波伝谷の人たちとの関係は今も続いているのである。その接点を何とか映画の中で示したかった。だから、この映画で全てを終わらせる必要は無いと思った。


 それが「逃げ」なのか「負け」なのか、今の僕には分からない。少なくとも、この作品である程度のことをやり切ってしまったのは確かである。そして映画を撮る・撮らないに関わらず、波伝谷をずっと追い続けることでしか、この映画が本当の意味で肯定されることはないということも、僕自身は分かっているつもりである。だから、もう一生懸命生きることでしかその答えを見つけられないように思う。それはあのラストを描く時点で、すでに心に決めたことなのだから。それが自分で選んだ道なのだから…。


 そんな僕と波伝谷の人たちとの関係も今では大分変わった。大分腹を割って話ができるようになった。震災を経てというのも大きいけれど、やはり映画を形にしたということが一番大きいように思う。形にすることでようやく深まる信頼関係もある。


 波伝谷に行く度に、変わり行く風景を見て、「今の自分は逃げてないか?」「ちゃんと生きてるか?」そう自分に問いかける。飲み会の帰り、波伝谷の人の肩を支えながら歩いた小道も、誤って転落してしまった側溝も、そのまま酔い潰れて眠りに着いてしまったたくさんの家も、今はもう無い。亡くなってしまった人もいるけれど、それでもみんな生きている。今後も「映画監督」と「我妻くん」の間で揺れながら、その関係をあまりプレッシャーに感じず、今は目の前のことにしっかり取り組んで行きたい。


我妻和樹(2015.7.8)



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