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執筆者の写真Kazuki AGATSUMA

震災を経ても土地に生きる~南三陸町波伝谷、12年間の映像記録を通して~

僕の活動を語る上で欠かせない存在として、東日本大震災の津波で被災した宮城県南三陸町の漁村「波伝谷(はでんや)」を舞台に作った『波伝谷に生きる人びと』(2014年/135分)、『願いと揺らぎ』(2017年/147分)という2つのドキュメンタリー映画があります。


僕は映像の下積みは全く無いと言っていいほど無く、大学も映像とは全く関係が無い東北学院大学の文学部史学科に進み、そこで民俗学を学びました。そして2005年の3月から始まった同大学の民俗学ゼミと東北歴史博物館の共同による波伝谷での民俗調査プロジェクトに参加したことによって、大学1年生の終わりに波伝谷と出会うことになります。(このドキュメンタリー以前に大学で民俗学を学んでいた大事な3年間については、いずれ何かの機会にちゃんと紹介できればと思っています。)


そして2008年3月に民俗調査報告書が完成したと同時に、大学を卒業し、以降は夜勤のアルバイトをしながら個人で波伝谷でのドキュメンタリー映画製作を開始しました。


以下の文章は、『願いと揺らぎ』の劇場公開時(2018年2月~)に作成したパンフレットに掲載した監督挨拶の文章をそのまま転載したものです。



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土地・地域とともに生きるということ

~東北の一被災地の12年間の映像記録を通して~


我妻和樹(映画作家)


 東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町に「波伝谷(はでんや)」という漁村がある。まさに津波被災地を象徴するかのような地名のこの漁村は、津波でたった1軒だけを残して約80軒あった集落が壊滅し、今なお復興の途上にある地域である。


 僕はこの波伝谷に2005年の3月から関わり続け、12年の間に2つのドキュメンタリー映画を作った。(正確には未発表の作品もあるが。)一つは『波伝谷に生きる人びと』、もう一つはその続編に当たる『願いと揺らぎ』という作品である。


 『波伝谷に生きる人びと』は2008年3月から震災当日にかけての3年間の日常を追った作品で、そこには時代の変化という波に晒されながらも、地方で土地に根差して生きる人びとの「普通の」暮らしが描かれている。同時に、作り手である僕も、そこに生きている人びとも全く予期していなかった震災(による集落の壊滅)という出来事をラストに迎えることによって、今「被災地」と呼ばれている場所にかつてどのような人の営みがあったのかを丁寧に記録した貴重な作品となった。


 一方『願いと揺らぎ』は震災から1年後、コミュニティが分断されてしまった波伝谷が舞台となっている。地域で最も大切にされてきた行事である「お獅子さま」(南三陸町の無形民俗文化財に指定されている波伝谷の春祈祷)を復活させ、自分たちの本来の姿を取り戻そうと奔走するも、多くの困難に直面し、全く足並みが揃わない。そんな当時の人びとの混乱と葛藤が描かれている。ストーリーの大部分は2012年1月半ば~4月半ばのたった3ヵ月間の出来事に過ぎないが、僕が2005年3月から撮り続けてきた震災前の映像を折り込み、ラストの2016年12月にこれまでの歩みを振り返ることによって、震災を経ても途絶えずに続く人の営みと地域のつながりを12年の期間に亘って描くことになった。


 このように、震災を経験した漁村の震災前後の暮らしを描いた2作品を通して、偶然にも震災によって何が変わったのか、何が失われたのか、それでも残っているものとは何なのか、その根底にある人びとの精神性を描くことになったのであるが、もちろん、これらのことははじめから意図してできたわけではない。それでは僕が元々波伝谷を通して何を表現しようとしてきたのかといえば、それは人と人との「共生」のあり方に他ならない。


震災前の波伝谷の遠景


 そもそも僕と波伝谷との出会いは2005年の3月12日に遡る。それは『願いと揺らぎ』のモチーフでもある「お獅子さま」を翌日に控えた日のことであった。当時東北学院大学の1年生だった僕は、民俗学を学ぶ学生として同大学の民俗学ゼミが主導する波伝谷での民俗調査に参加し、縁もゆかりもない波伝谷を訪れることになる。その最初の調査で出会ったお獅子さまの衝撃が、その後の僕の人生を大きく変えることになった。


 お獅子さまは春を迎え入れるための悪魔祓いの行事で、毎年3月の第2日曜日に行われる。(かつては釈迦が入滅したとされる旧暦の2月15日に行われていた。)この日、鮮やかな衣装をまとった若者たちの扮する獅子が波伝谷内の全戸を回り、集落に立ち込めた厄を祓って歩く。とにかく子どもから女性、お年寄りまで、波伝谷の全戸全世代が主体的に関わるこの行事を見て、僕は自分のバックグラウンドにある地域のそれとは全く異なる力強さを覚えた。そして今の日本でこれだけの熱量のある行事を行える地域は果たしてどれだけあるのだろうかという感動とともに、この行事を支えている波伝谷の日常や歴史が一体どういうものなのか、より深く見つめて行きたいという気持ちになった。


 こうしてお獅子さまを始まりとして、2005年3月から2008年3月にかけての3年間、述べ70人の学生による波伝谷での民俗調査が行われる。約80軒ある家の一軒一軒を訪ねては、昔の話を聞かせていただき、漁業・農業といった普段の仕事の様子や行事を見学させていただくなどして、あらゆる角度から波伝谷の暮らしを立体的に見ていった。そうして分かったのは、地域に残るさまざまな社会組織、親族間、そして海の仕事を通しての人間関係など、日常の中で、良くも悪くも人と人とが深く関わり合いながら生活し、それが波伝谷全体を網の目のように張り巡らせているということであった。


 そして時間をかけて地元の方々との信頼関係を築くことで、そこで実際に生活している人びとがどのようなことを感じ、どんな悩みや喜びを抱えているのか、少しずつ心の面にも触れていけるようになっていった。中でも僕にとって大きかったのが、後に『波伝谷に生きる人びと』を作るきっかけとなった三浦賢一さんとの出会いだった。


 賢一さんは、調査の1年目と2年目に波伝谷で最も責任のある契約講長という役職に就いていた方で、地域のあらゆる窓口となっていた方である。中学を卒業してからはずっと漁業一本で生きてきて、風貌を見ても分かるとおり、若い頃は自他ともに認めるほどやんちゃだった。その賢一さんが地域の人間関係にもまれて成長し、やがては波伝谷で最も責任のある契約講長という立場になった。そして本人もその経験を自分にとって大切なものとしていた。


 その賢一さんと、調査の終盤に、自分の卒論のためにサシで酒を酌み交わしたときの言葉が強く印象に残った。「講長になることで部落に対する考えができた」という言葉に、頭を叩かれたような衝撃を覚えたのである。そして早いうちから「俺は海しか知らない」と生き方を決めているその姿勢に、漠然と大学に通っていた自分とは全く異なる生きる力のようなものを感じたのである。


 波伝谷の人びとの心の中には、何故こんなにも地域というものが常に大切なものとして存在しているのだろうか。そこでのつながりは、決して良いことばかりではなく、ときに煩わしいこともたくさんあるに違いない。しかし人が人として当たり前に生き、成長するための土台が、波伝谷にはしっかり備わっているように思えた。学歴なんかなくとも地域の中で必要とされ、価値観や考え方が違っても、互いに認め合いながら地域の中で役割を担って支え合う。その土台は、自然の恵みを受けて暮らす人びとが、より良く生きようと長い助け合いの中で育んだものなのだろう。こうした良い部分も悪い部分も全部ひっくるめた濃密な関わり合いがあるからこそ、人は故郷に愛着を持ち、お獅子さまのときにはあれだけの結束を発揮するのだと思う。


 「土地とともに生きる」「地域とともに生きる」ということが一体どういうことなのか。賢一さんと出会って以来、僕の中にそんな問いが芽生えた。波伝谷の人びとのような生き方は、何もここだけに限ったことではない。しかし、もしかしたらこうした生き方は、現在では地方の至るところで消えようとしているのかもしれない。だからこそ、波伝谷という一つの小さな世界の中で、互いに深く関わり合いながら生きている人びとの姿を徹底的に見つめていくことによって、人と人との「共生」のあり方について、一つの普遍に辿り着けるのではないか。そう考えた僕は、2008年3月の民俗調査報告書の完成とともに大学を卒業し、以後個人で波伝谷でのドキュメンタリー映画製作を開始するのである。


『波伝谷に生きる人びと』の一場面


 こうして自分が魅力に感じた波伝谷の人びとを映像で伝えようと始まった撮影だが、当然ながら映画の下積みも人脈も何も無い僕は、ずっと自分に自信が無く、悩みながら撮影を続けた。自分が何をしたいのか、心の内をぶつけることもできず、大事なときにカメラを向けることができないことも多々あった。


 それでも波伝谷の人びとが心を開いて僕に撮らせてくれたのは、みんな今の暮らしが変わっていくことをどこか肌で感じ取っていたからだと思う。自分たちが続けていることも、守り抜いてきた地域の結びつきも、時代の流れの中でいつかは無くなってしまうかもしれない。そんなときに、自分たちの姿を映像として残してくれている若者がいる。それは実際映画になるかどうかは分からないけれど、何十年か後に、もしかしたら自分たちにとって必要な記録になるかもしれない。そうして地域の人びとに守られながら、3年間撮影を続けた先に、東日本大震災が起きた。


 お獅子さまを2日後に控え、波伝谷に向かっている途中で被災した僕は、翌3月12日から14日の朝にかけて波伝谷の人びとと避難所でともに過ごした。そして避難所を出てくる際、僕は波伝谷のみなさんに「またすぐ戻ってきますから」と声をかけて出てきたものの、150km離れた内陸の自宅に着いてからは心境が一変して波伝谷に戻れなくなってしまう。この非常時に自分は何者として戻ればいいのか、人として向き合う勇気も映像作家としてカメラを向ける勇気も無く、その関係性を見失ってしまったからであった。


 それでも何とか波伝谷に戻り、震災後の撮影と並行して編集を進め、約3年の編集期間を経て2014年1月に『波伝谷に生きる人びと』を完成させた。これは編集の過程で2011年12月、2012年11月、2013年8月の3回波伝谷で試写会を開き、幾度も形を変えて完成することになったが、震災があったからといって自分が当初やろうとしていたことを変えることなく、震災前の時間を一つの時代の記憶として描いた。しかしそこに生きている「人間」を十分に描き切ったという実感までは持てなかった。


 そして『波伝谷に生きる人びと』の公開が落ち着いてから、2017年3月にようやく震災後の続編に当たる『願いと揺らぎ』を完成させた。この映画の完成によって、自分がずっと波伝谷を通して描こうとしてきた人と人との「共生」のあり方について、一つの答えに到達できた思いがした。震災の壊滅的な被害によってコミュニティが分断され、人間関係に亀裂が生じながらも、何故人びとは土地から離れず、全て受け止めて互いに生きて行こうとするのか。被災地の人びとが何を取り戻そうともがき、震災後の時間を歩んできたのか。『波伝谷に生きる人びと』という下地があったからこそ、その“願いと揺らぎ”を描くことができたと感じたからであった。


『願いと揺らぎ』の一場面


 このように、『波伝谷に生きる人びと』も『願いと揺らぎ』も震災を扱いながらも、実際にはそこに生きる人びとの営みそのものに焦点が置かれている。そこが震災後に被災地に入った多くの映像作家の視点とは少し異なるところかもしれない。しかし撮影の動機が震災を契機としていないからこそ、逆に被災地の人びとが抱えている諸問題について、より内側から捉えることができた側面があるのは間違いないと思う。つまり災害というのは長い目で見れば過程の一つであって、災害が起こる前から人びとはそこに生きていたし、災害があってどんなに辛いこと、苦しいことがあっても、やはり人びとは悩みながらもそこで暮らしを紡いでいるからである。


 そして僕が波伝谷を通して表現したかったことは、まさにそんな当たり前のことであった。波伝谷の人びとにとって「土地とともに生きる」「地域とともに生きる」ということが一体どういうことなのか。それを現地に実際に生きている当事者たちの視点から深く見つめていくことによって、今自分たちが生きているこの時代について、人と人とのつながりについて、足元から見つめ直すことができるのではないか。それがこの12年間、僕が波伝谷での映像記録を通して問い続けたテーマであった。


2012年にお獅子さまが復活してからも、波伝谷の人びとは先行きの見えない生活の中で一つひとつの課題に取り組み、現在では高台の団地に40軒弱の家が残って新たなコミュニティ作りに取り組んでいる。震災が生んだひずみを受け止め、再びともに生きる道を選んだのは、やはりこれまで生きてきた故郷への愛着があるからであろう。つまるところ、人は一人では生きられないのかもしれない。もちろん、被災地の中にはもう二度と故郷に戻れなくなった地域も多く、その時間の流れも復興の歩みもそれぞれだが、波伝谷をはじめとした多くの地域は、これからが本当の意味での復興なのだと思う。


 そして、12年の間に、僕と波伝谷の人びととの関係も少しずつ変わって行った。震災を経たからというのも大きいと思うが、作品を形にすることによって、はじめて自分が何をしようとしていたのか、理解してもらえるようになった。形にすることでようやく深まる信頼関係もある。それは『波伝谷に生きる人びと』の上映を通して思ったことであるが、『願いと揺らぎ』を完成させて、自分自身の震災後の表現がようやく現在に追いついたことによって、より強く感じるようになった。今では僕に対する呼び方は「我妻くん」から「監督」に代わったが、それがいいことかどうかは別にして、単なる記録者ではなく、伝える人間として認識してもらえるようになったことの表れなのかもしれない。


 余談だが、先日これから大学に進学する波伝谷の若者とフェイスブックで友達になり、メッセージを交わす機会があった。その中で、僕の映画について感謝の気持ちを示してくれると同時に、「これからは自分が波伝谷を支える存在になりたい」ということが書かれてあった。その子が小学校に入る前から見てきたわけであるが、12年間過ごしてようやく心がつながったと感じた瞬間だった。僕の大好きな波伝谷の地域の結びつきが、次の世代の若者たちの手で継承されていくことを祈りたい。


震災後の波伝谷の遠景(2017年2月撮影)

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